子供を持った人が口をそろえていうことに
「かわいい」
という言葉がある。
誰もが言う。
とにかく「かわいい」「かわいい」と。
しかし、成人女性にたいしてもかわいいと人は言ったり、犬猫をみてカワイイと言ったり、洋服を見てかわいいと言ったり、小さな置物をみてかわいいと言ったりもする。
子供が居ない僕のような人間が思う、子供の可愛さというのは多分犬猫を「かわいい」というものに近い「かわいい」だと思うのだ。
でも、子供をお持ちの方の子供への「かわいい」と言うのは、それとはまた少し異なるものだと思う。なんか次元が違うというか。。。。
だってお母さんからすれば40過ぎたおっさんでも、息子の可愛さはかわらないと言うではないか。
でも僕は40過ぎたおっさんをみておっさんかわいいなーとは思うことはない。
むしろ思ったら大問題だ(笑)
言葉というのは実際に自分の内面や感じているものの、3割程度しか表現することが出来ない。等と言うが、この「かわいい」という言葉もその一つなのだろう。
きっと、この「かわいい」にカテゴライズされている感情、感覚のなかでもおそらく前記に上げた感覚以外のものもたくさんあると思うのだ。
さて、、、
そしてこれと似たような感覚の様々な意味合いをもつ言葉なのか?なんなのか?
僕の中で最近考え続けていた言葉で「さびしい」もしくは「さみしい」という言葉がある。
これについて考え続けている。
よく人は言う。
例えば、「自分はさみしがりや」だとか、時には人のことを、「あの人はさみしがりやだ」と、いう場合もある。
このさみしいという感情ってどんなものか?
・一人でいたくない
・誰かに居て欲しい
・注目してもらいたい
・自分を気にして欲しい
と、いったかんじかな。。。
まとめて言うと、「誰かとコミュニケーションをとりたい!」ということかな?
そしてこの「さみしい」という感情は人間のなかで、一番重要な「なにか」なのではないかと僕はおもっているのだ。
みなさんも経験ないだろうか?
ご家族のお年寄りやご年配のお知り合いの方等で経験したことが有ると思うが、
とにかく「話」をしたがる。
長時間拘束されて何度も聞いた話を聞かされたり、どーでもいいような話や昔話を永遠と聞かされたりすること。
僕は昔からトレーニングジムに行くのだが、今まで引っ越した先々、区の施設から有料の会員のところだったりいろんな場所にいったけど、どこに言っても年配の方が集団になって語らっている場を凄くよく目にする。
そのジムの中での人間関係というか、話し相手との持ちつ持たれつの傷の舐め合い的な関係に、なによりも必死になっているようにさえみえる。
人生の酸いも甘いも経験した方、百戦錬磨の経営者だった方、ただただ真面目だったサラリーマンの方、破天荒なギャンブラーのような方。
どんな生き方をしようと、最終的に人というのは「人」を求める。なぜなんだろう??
若い時はそんな感じではない人も多くいる。一人が好きな人。孤独が好きな人。
でも老いてきた時に寂しさを抱えていない人は、まーほとんど見たことがない。
人生も後半戦もしくは終盤戦にもなり、なんでなんだろう?と考えるのだ。
終わっちまう前に何か自己実現をしよう!と、言った人がもっともっと、いても良いような気がするのに、そんな人はほとんどいない。
多くの老人がとにかく「寂しいんだー」と人とのコミュニケーションを渇望する。
そこで僕はかんがえたのだ。
この「寂しい」という言葉の感覚、感情。
人とコミュニケーションを取りたいという欲求。
これはなにか言葉で言い表せない、なにかもっと大きなものというかすごく重要な感情&欲求なのではないかと思うのだ。
「寂しがり屋」などとう言葉で表すような感情ではなく、人間はデフォルト(初期状態)がそもそもが、みんな誰もがその感情を消えること無く持ち合わせているのでは無いかと思うのだ。
そして人とのコミュニケーションにより、その気持ちを埋めること、和らげること自体が人生という時間を過ごす事において睡眠や、捕食、そして子孫を残すことと同じくらい大切な一つなのではないかとぼくは思うのだ。
なんのため生きているんだろう?なんてことを多感な時期に考えた人もおおいでしょう。
僕はこれはずーっと、ことあるごとに考え続けている。
最初10代後半~20代は何かをやり遂げるためだ!と思っていた。
その後、ニヒリズム的な生きることになんていうのは、さして意味はない。ただ生命や宇宙の流れのなかでいえば人一人の人生なんて言うのはチリの1部にもならないようなのだから、僕の人生なんて言うのはなんの意味も無く、意味を探すなんて言うのはおこがましいことだとも考えた。
要は起きて、飯食って、うんこして、また寝てでしかないのだ。。。。
とは言っても僕の人生は僕にしか無く、この自分の目を通して、目の前に広がっている世界や毎日の主人公は僕なのだ。
意味は無いのだけれども、せめてその自分だけの人生「不快」より「快」な毎日を生きていきたいと思った。
そう考えて「快」すなわち、「たのしい」「うれしい」「おもしろい」など感じられる毎日を生きていこうと思うのならそこには「人」がいて「コミュニケーション」がなければそれを感じ続けていくことは出来ない。
なのであればその「人」と「コミュニケーション」コレが有ることが一番大事なことだ。
「人は一人では生きていけない」などと、よく目にするがこれは人は人に助けてもらっている。というような意味がメインかもしれないが、それと同じくらいに人は一人では寂しすぎて生きていけないという意味も有るように感じている。
僕は人という存在は、全員、基本性能でこの「寂しさ」がかなりでかく備わっていることに気づいてからは、仕事やプライベートでも自分が好きな人とのコミュニケーションに凄く集中している。
自分自身もそれを楽しんでいるし、その人にとっても僕と過ごす時間は有意義な時間であって欲しいと凄く思っている。
だから自分はもっともっと面白くなりたいと思っている。この面白くなりたいと言うのは面白い深みのある人間という意味ではなく、ただ人を笑わすことが出来る芸人さんみたいになりたいと思っているのだ。単純におもしろ人間に。
そしてもう一つ。もっともっと頭が良くなりたいと思っている。知識や知能、発想などの能力を高められれば良いなと思っているのだ。
なぜかって、ただ単に面白くって、頭がいい人って一番コミュニケーションを取ってて楽しいと思うから。僕はそうなりたいのだ。
ジジイになって寂しくて誰かれ構わず話しかけるような状態にはなりたくないのである。
沢山、自分も会いたいと思う人がいっぱい居て、自分に会いたいと思ってくれる人がいっぱいいる。そんな幸せな晩年というか、老後はこんな楽しいことはないでしょう。。。
前にたまに自分の事務所に対して、渋谷に高い家賃払って借りていて別に借りていなくてもいーかなーとか、自宅をもう少し広くしてパソコン置いて仕事やればいらないかなーとか考えることも合った。
でも最近は全くそんなことは考えない。なぜなら僕は自分の隠れ家。自分のアジトを持つのは人生の夢や目的だったから。今の状態を得るために夢を持って仕事をしてきたのだから、
お金や、合理性を求める意味が無いのだときづいた。
同じように仕事を通してや、プライベートでも、人と関われること、一緒に考えること、成功を共有できること、これこそすごく幸せなことだな、それにこそ人生の意味があるのだと今の自分は思っている。
ということで、良い晩年、良い老後を迎えるために、普通に生きられるくらいの蓄えを貯めることと同じくらい、いや!それ以上に周りの人の関係を育(はぐく)むこと、、周りの人が付き合うに値するような人間で有るために努力すること。
これが老後の準備には重要だなと40歳前に考えたことを皆さんにも伝えたい!と思い、語り尽くした午前3時30分なのであった。。。。。
おやすみなさいませ。
「かわいい」
という言葉がある。
誰もが言う。
とにかく「かわいい」「かわいい」と。
しかし、成人女性にたいしてもかわいいと人は言ったり、犬猫をみてカワイイと言ったり、洋服を見てかわいいと言ったり、小さな置物をみてかわいいと言ったりもする。
子供が居ない僕のような人間が思う、子供の可愛さというのは多分犬猫を「かわいい」というものに近い「かわいい」だと思うのだ。
でも、子供をお持ちの方の子供への「かわいい」と言うのは、それとはまた少し異なるものだと思う。なんか次元が違うというか。。。。
だってお母さんからすれば40過ぎたおっさんでも、息子の可愛さはかわらないと言うではないか。
でも僕は40過ぎたおっさんをみておっさんかわいいなーとは思うことはない。
むしろ思ったら大問題だ(笑)
言葉というのは実際に自分の内面や感じているものの、3割程度しか表現することが出来ない。等と言うが、この「かわいい」という言葉もその一つなのだろう。
きっと、この「かわいい」にカテゴライズされている感情、感覚のなかでもおそらく前記に上げた感覚以外のものもたくさんあると思うのだ。
さて、、、
そしてこれと似たような感覚の様々な意味合いをもつ言葉なのか?なんなのか?
僕の中で最近考え続けていた言葉で「さびしい」もしくは「さみしい」という言葉がある。
これについて考え続けている。
よく人は言う。
例えば、「自分はさみしがりや」だとか、時には人のことを、「あの人はさみしがりやだ」と、いう場合もある。
このさみしいという感情ってどんなものか?
・一人でいたくない
・誰かに居て欲しい
・注目してもらいたい
・自分を気にして欲しい
と、いったかんじかな。。。
まとめて言うと、「誰かとコミュニケーションをとりたい!」ということかな?
そしてこの「さみしい」という感情は人間のなかで、一番重要な「なにか」なのではないかと僕はおもっているのだ。
みなさんも経験ないだろうか?
ご家族のお年寄りやご年配のお知り合いの方等で経験したことが有ると思うが、
とにかく「話」をしたがる。
長時間拘束されて何度も聞いた話を聞かされたり、どーでもいいような話や昔話を永遠と聞かされたりすること。
僕は昔からトレーニングジムに行くのだが、今まで引っ越した先々、区の施設から有料の会員のところだったりいろんな場所にいったけど、どこに言っても年配の方が集団になって語らっている場を凄くよく目にする。
そのジムの中での人間関係というか、話し相手との持ちつ持たれつの傷の舐め合い的な関係に、なによりも必死になっているようにさえみえる。
人生の酸いも甘いも経験した方、百戦錬磨の経営者だった方、ただただ真面目だったサラリーマンの方、破天荒なギャンブラーのような方。
どんな生き方をしようと、最終的に人というのは「人」を求める。なぜなんだろう??
若い時はそんな感じではない人も多くいる。一人が好きな人。孤独が好きな人。
でも老いてきた時に寂しさを抱えていない人は、まーほとんど見たことがない。
人生も後半戦もしくは終盤戦にもなり、なんでなんだろう?と考えるのだ。
終わっちまう前に何か自己実現をしよう!と、言った人がもっともっと、いても良いような気がするのに、そんな人はほとんどいない。
多くの老人がとにかく「寂しいんだー」と人とのコミュニケーションを渇望する。
そこで僕はかんがえたのだ。
この「寂しい」という言葉の感覚、感情。
人とコミュニケーションを取りたいという欲求。
これはなにか言葉で言い表せない、なにかもっと大きなものというかすごく重要な感情&欲求なのではないかと思うのだ。
「寂しがり屋」などとう言葉で表すような感情ではなく、人間はデフォルト(初期状態)がそもそもが、みんな誰もがその感情を消えること無く持ち合わせているのでは無いかと思うのだ。
そして人とのコミュニケーションにより、その気持ちを埋めること、和らげること自体が人生という時間を過ごす事において睡眠や、捕食、そして子孫を残すことと同じくらい大切な一つなのではないかとぼくは思うのだ。
なんのため生きているんだろう?なんてことを多感な時期に考えた人もおおいでしょう。
僕はこれはずーっと、ことあるごとに考え続けている。
最初10代後半~20代は何かをやり遂げるためだ!と思っていた。
その後、ニヒリズム的な生きることになんていうのは、さして意味はない。ただ生命や宇宙の流れのなかでいえば人一人の人生なんて言うのはチリの1部にもならないようなのだから、僕の人生なんて言うのはなんの意味も無く、意味を探すなんて言うのはおこがましいことだとも考えた。
要は起きて、飯食って、うんこして、また寝てでしかないのだ。。。。
とは言っても僕の人生は僕にしか無く、この自分の目を通して、目の前に広がっている世界や毎日の主人公は僕なのだ。
意味は無いのだけれども、せめてその自分だけの人生「不快」より「快」な毎日を生きていきたいと思った。
そう考えて「快」すなわち、「たのしい」「うれしい」「おもしろい」など感じられる毎日を生きていこうと思うのならそこには「人」がいて「コミュニケーション」がなければそれを感じ続けていくことは出来ない。
なのであればその「人」と「コミュニケーション」コレが有ることが一番大事なことだ。
「人は一人では生きていけない」などと、よく目にするがこれは人は人に助けてもらっている。というような意味がメインかもしれないが、それと同じくらいに人は一人では寂しすぎて生きていけないという意味も有るように感じている。
僕は人という存在は、全員、基本性能でこの「寂しさ」がかなりでかく備わっていることに気づいてからは、仕事やプライベートでも自分が好きな人とのコミュニケーションに凄く集中している。
自分自身もそれを楽しんでいるし、その人にとっても僕と過ごす時間は有意義な時間であって欲しいと凄く思っている。
だから自分はもっともっと面白くなりたいと思っている。この面白くなりたいと言うのは面白い深みのある人間という意味ではなく、ただ人を笑わすことが出来る芸人さんみたいになりたいと思っているのだ。単純におもしろ人間に。
そしてもう一つ。もっともっと頭が良くなりたいと思っている。知識や知能、発想などの能力を高められれば良いなと思っているのだ。
なぜかって、ただ単に面白くって、頭がいい人って一番コミュニケーションを取ってて楽しいと思うから。僕はそうなりたいのだ。
ジジイになって寂しくて誰かれ構わず話しかけるような状態にはなりたくないのである。
沢山、自分も会いたいと思う人がいっぱい居て、自分に会いたいと思ってくれる人がいっぱいいる。そんな幸せな晩年というか、老後はこんな楽しいことはないでしょう。。。
前にたまに自分の事務所に対して、渋谷に高い家賃払って借りていて別に借りていなくてもいーかなーとか、自宅をもう少し広くしてパソコン置いて仕事やればいらないかなーとか考えることも合った。
でも最近は全くそんなことは考えない。なぜなら僕は自分の隠れ家。自分のアジトを持つのは人生の夢や目的だったから。今の状態を得るために夢を持って仕事をしてきたのだから、
お金や、合理性を求める意味が無いのだときづいた。
同じように仕事を通してや、プライベートでも、人と関われること、一緒に考えること、成功を共有できること、これこそすごく幸せなことだな、それにこそ人生の意味があるのだと今の自分は思っている。
ということで、良い晩年、良い老後を迎えるために、普通に生きられるくらいの蓄えを貯めることと同じくらい、いや!それ以上に周りの人の関係を育(はぐく)むこと、、周りの人が付き合うに値するような人間で有るために努力すること。
これが老後の準備には重要だなと40歳前に考えたことを皆さんにも伝えたい!と思い、語り尽くした午前3時30分なのであった。。。。。
おやすみなさいませ。