
1972年ブロンズ社発行。松本隆23歳。
青森でのライブを終えて東京に帰る列車の中の叙述から始まるこの本は、若き松本隆の随想と詩を散りばめたものになっている。風街ろまんをリリースして、はっぴいえんどとしての活動の終焉の時を予感しながら、日本のロックの方向について若い感性をとがらせていた時期だ。当時、僕ははっぴいえんどに関するものは何でも聴きたかったし見たかったし読みたかったから、この本もそういう関心の中で手に入れた。そうして、松本隆の言葉に少なからぬ共感と憧れを抱いて読み、本棚に大切にしまっておいた。あれから38年の歳月が過ぎたことになる。その間、何度か本棚から取り出してページを開きはしたが、改めて読み返したり深く惹きつけられたりということもなく、少し眺めては本棚に戻していた。
◆既成ニュー・ロック・バンドと称する出世コースばりの黒船至上ロックには辟易してしまうのだ。ここには、原因と結果の取り違えがある。サイモンを引用するまでもなく、ロックはつねに原因の側にあることは、ぼくたちも知っていたはずだ。ぼくたちも、あの、やって来た部類なのだから。
◆ぼくは細野君と共にロックという放浪を再確認しようと考えた。アメリカ・ニュー・ロックの、あの円卓騎士の英雄談とボヘミアン的隠遁のアイロニーから解き放たれた地点から再出発すること。
◆ぼくらが日本人であるから、日本にいるからということではない。日本もぼくたちから見れば隠し絵になってしまうように、ロック自体の枠組みが、歪められた母国語で唱うことを迫るような、場所のコペルニクス的転回なのである。
今となっては、出世コースばりの黒船至上ロックが何を具体的に指していたのか忘れてしまっている。はっぴいえんどがコペルニクス的に転回したはずの場所は、歪められた母国語で唱うことを迫るような地点に、またUターンしているのではないのか。僕は記憶の隙間を埋めてくれるブログを読んだり、記憶を繋ぎ合せてくれる動画に出会ったりしながら、若い日の松本隆に共感していた若い日の自分を思い出そうとしてみる。この本が、松本隆の随想詩集でなくエピソードと所感を綴ったものであったなら、僕はわりと容易にその共感の在りかに辿りつけたのではないかと思う。