最近、昔の映画やドラマが大好きでよく見ています。

昔と言っても、2000年頃です。


そこには、今の世界ではもう感じられなくなった「熱」が、まだ残っている気がします。

 

 

 

 

 

あの頃の映画やドラマの会話は、無駄が多かった。長くて、感情的で、まわりくどい。
でも、楽しかった。沈黙すらも、会話の一部だった。

俳優や女優の表情から、どう思っているのかを汲み取り、言葉はなくても会話していたし、相手の目を見て、言葉を交わすことに、ちゃんと意味があった。


今の私達は、絵文字とスタンプで感情を圧縮して、リアクションで親密さを演出する。
それは、繋がっているようで、どこか空っぽだ。
昔の映画には、人間らしい無駄があった。


効率なんて気にせず、ただそこにいることが許されていた。
今は、何かをしていないと不安になる。沈黙が怖くて、スマホをいじる。
でも、あの頃の映画の中では、沈黙がちゃんと「会話」だった。

『高校教師』とか『今、会いに行きます』とか日本人が作る間の取り方が抜群だった。


そして、もっと根深い違和感がある。
今の世界は、分断されすぎている。
ニュースは信じられず、真実は人によって違っていて、誰もが「何がリアルか」を疑っている。


それでも、人々は「感情的に正しいと思う方」に群がっていく。怒りに寄り添う言葉が、論理よりも強く響いてしまう。
最近の選挙を見ていて、そう感じた。


事実よりも、物語。

根拠よりも、煽動。


SNSで拡散されるデマに流される人が増え、ファクトチェックが追いつかない。
それは、民主主義の崩壊の始まりかもしれない。


「みんなが同じ現実を見ていた時代」は、もう過去になってしまったのだろうか。


かつて、会話には時間がかかった。
人と向き合って、言葉を交わして、沈黙すらも共有していた。


面接だってそうだった。履歴書だけじゃなく、話し方や目線や、ちょっとした間の取り方から、その人の人間性を感じ取っていた。

でも今は、AIが書類をスキャンして、アルゴリズムが「適性」を判断する。

アメリカでは、面接に行きつくまでにアルゴリズムの中で落とされる人がたくさんいる。


「スキルが良すぎて、過去の事例で他の会社に転職する可能性が高くコストの無駄になる」と判断されて不採用になった人もいる。

私たちは人間というただの種類であって、個人として扱われてない。

これはもはやAIに支配され始めていると言ってもいいのでは?


人間を“データ”として処理する時代に、私達は生きている。


繋がっているようで、つながっていない。


そんな世界が、静かに私達の足元を崩していく。
 

だからこそ、私達は立ち止まるべきなのかもしれない。

 

怒りに流される前に、事実を見つめ直す。

共感に飲み込まれる前に、問い直す。

 

「本当にそれは、正しいのか?」と。

 

ある人が言っていました。

「今AIを止めないと、本当にAIに支配される時代が来る。

でもおそらく人間はバカだから止められずにこのまま崩壊の道を突き進むだろう。」

 

それでも、私は諦めたくない。

 

民主主義は、感情の洪水の中では育たない。

それは、地味で、地道で、面倒くさい営みの中でしか育たない。

 

だからこそ、私達はあの頃の映画にあった「無駄な時間」を取り戻す必要がある。

 

誰かと向き合って話すこと。

沈黙を怖がらずに、聞くこと。

その一つひとつが、分断された世界を少しずつ繋ぎ直していく、

最も静かで、最も人間的な革命になる。

 

私は静かに抵抗して、この安っぽいコピー品の現実を、少しでも本物に近づける努力をしていきたい。

 

そして人類が最後を迎える時に、AIが著しく進化を遂げているこの頃に抵抗していた人間の一人でいたい。
『ターミネーター』で未来の危機を訴え続けたサラ・コナーのように、静かに、そして孤立を恐れずに…