ちょっとニュースをみないうちに…。
なんだか悲しい事件がいろいろ…。
子どもを持つ親として
やっぱり一番悲しいのは、子どもが死ぬこと。
事故死…自殺…虐待死…。
自分の子じゃないから…
他所の子だから…
なんてことはとても思えない。
自分の子どもだって、いつどこで、巻き込まれるかわからない。
登校中に自動車が突っ込んでくるかもしれない。
園バスが事故に遭うかもしれない。
自殺する要因は、今のところ見当たらないけど、長男は小学1年の時に遺書を書いていたことがある。
今でも大事にしまってある。
本人は覚えてないみたいだけど…。
遺書を書いた理由は、
「何が起きて死ぬかわからないから、書いておきたかったの」
とのことで、別段、悩みがあって死にたいから、と言うことではなかったようで、心底ほっとした。
内容も、辛い、悲しい、ということは何もなく、みんな、今までありがとう、僕はとっても幸せでした、というもので。
読んだ時、本当に死んだわけじゃないのに、涙が止まらなくなり、こらえるのに必死だった。
死んだわけじゃないけど、長男の中に「死」というものが確かに存在していることがアタシにも認識できて、なんだか怖くなった。
今は、幸せな感想を綴れるけれど、これが数年後も同じである保証なんてどこにもない。
子どもの心は本当に繊細なんだろうと思う。
繊細で、ストレート。
だからこそ、傷ついたときに「死」を選んでしまう子どもがいるんだろうと思う。
尾木ママがちょうどブログに
「自殺者が出ると、学校はすぐに命の大切さを教えようとするけど、それはやめて!」
って書いてたけど、ほんとにそうだと思う。
命の大切さなんて、口で語って伝わるものじゃない。
アタシ自身、自分の命がどれほど大切なものか、と問われると、そうでもないな、と思ってる。
今は、子どものために、旦那のために、生きようと思うけど。
小学校の頃から、結婚するまでは、自分の命を大切にしたい、なんて思ったことなかった。
親が愛してくれなかった、なんてことじゃなくて、アタシ自身に親の愛を理解する力がなかった、が正解かもしれない。
今でも、自分自身のことを若干、欠陥商品なんだろうな、と思ってるところがあるので、これはもうしかたない、と思ってる。
こういう人間もいるので、いくら命の大切さを説いたところで、伝わらないものは伝わらない。
本当に大事なものが出来て、その大事なものを悲しませないために、と思えた時、ようやくわかる部分があるんだろうと思う。
つまり、子どもにとって大事なもの、が必要ということ。
子どもにとって大事なもの。
それはやっぱり一番は家族であってほしい、と思う。
父親、母親、祖父母、兄弟、姉妹…。
それから友達。
いずれは恋人。
でも、残念なことに友達や恋人、というのは分からない。
人の心ってのは、どうして移りゆく物で、どれだけ仲が良くてもクラスが変われば話す時間が無くなったり、学校が離れれば会えなくなったり…。
どちらが悪いわけでなく、避けられない別れはある。
そういったことも踏まえると、やっぱり子どもの一番大事であるべき存在は、家族なんだろうと思う。
お互いに。
相手を大事にすることで、相手も、自分を大事に思ってくれる。
子どもに良く言うのは、
「怒っても怒っても、母ちゃんは長男と次男が大好きで大好きで大好きなんだ」
ってこと。
その言葉と共に、抱きしめる。
激しく怒る日もある。
あんなに怒らなくてもよかったかなって思うこともある。
そんな時、ふっと頭によぎるのは、長男の遺書の事。
それとリンクして、自殺した子どもたちの報道。
子どもには必ず、絶対安全な領域が必要だと思う。
必ず、帰れる場所。
だから、怒っても日をまたぐような怒り方はしないと決めた。
怒ったまま、学校や外へ送り出すこともしない。
家で怒られたことよりも、ショックな出来事があるかもしれないのだから、その「ショック」から、守ってあげたいと思うし、「家に帰れば守ってもらえる」と思ってほしいと思う。
でも、残念ながら世の中にはそういう場所を確保できない子どももいて、こんなに平和な日本の中でも、毎日生きるのがつらいと感じている子どももいる。
児童相談所へ自分を保護してほしい、と言っていた中学生の彼も、帰る場所がなかったんだろうし、昨年の夏に殺されてしまった中1男女も、やっぱり居場所がなかったんだろうと思う。
もちろん、各家庭に事情があって、親御さんだけに責任があるわけじゃないとも思う。
特に、殺害された被害者の場合は、一番悪いのは犯人だし、さらに言えば、中学生にもなれば、やっていい事とわるい事の認識は少なからずあっただろうと思う。
思春期で、親に反抗したい年頃だったかもしれない。
児童相談所に駆け込んだ中学生も、端から見れば、あぁ、親の言うことをききたくない年頃なんだなぁ、多少は躾で殴られてもしょうがないかもしれないなぁ、と思うレベルだったのかもしれない。
すべては憶測。
並べるべき話でもないかもしれない。
でもね。
この子たちみんな、「もうどこにも行けない」と思ったんじゃないかと思う。
普通は家に帰ろうと思う。
大人なら、家には帰れなくても、ホテルに行くなり、ネカフェに行くなりすると思う。
とりあえず、屋根と、壁があって、安全な場所で時間的な夜だけじゃなくて、心の闇も、越えようとすると思う。
でも子どもはどうすればいい?
家に帰れない、帰りたくない子ども。
そういった子のシェルター的な場所を、もっと作ってあげられないのかな、と思う。
行くあてもなく、フラフラするんじゃなくて、「あそこへ行けば大丈夫」と思える場所。
児童相談所でも、もう少しゆるく、預かれるようになったらいいのになぁ。
保育所を夜は小学生から高校生の避難場所にするとか。
もちろん、男女別でね。
園児たちの物があるからだめかな?
でも、子どもシェルターとかあっても、本当に困ってる子って、それを調べるだけの余力が無さそうな気もする…。
障害のある人が、生活保護や、手当などをもらえるっていう知識が無くて、貧困に苦しむっていう話があったけど、なんとなくそれと同じ気がする。
結局、いろいろな制度があったとしても、教えてくれる人がいないし、知識を得る場がない。
学校教育って、本当に必要なものを、もう一回見直さなきゃいけないんじゃないかなって思う。
そんなこともいろいろ考えてしまった。
なんにせよ、一番はやっぱり、子どもが安心して暮らせる家があること。
そのためには、親がハードワークで常にだれもいないような環境になっていてはやっぱりいけないんだろうなとも思う。
まあ、どれだけ裕福でも働きたい人は働くのだしそれに理解を示す子供もいるわけなので、一概には言えないですよ。
でも子どもとじっくり向き合う時間をとるためには、やっぱり経済的な余裕がなくては、時間もないよね、と思うのです。
あー、こういうこと書くと、
「お金もないのに子どもを作るのが悪い」論を掲げる人が出てくるのですけども、その話、また今度(´・ω・‘;)
結局援助しろって話かい、と思われるかもしれないですが、そういうわけでもないです。
なんでしょう。
いろんな意味で、「余裕」のある世の中にならないかな、と思ってるだけです。
時間的余裕、経済的余裕。
保育所の余裕、大学の枠の余裕。
奨学金の借金に苦しむ人も多くいるし…。
なんかいろいろ、変ですよね?
明日子どもが笑って過ごせる世の中になってほしい。
そうなれるように、まずは自分が子どもに必死に愛を伝えたいと思いました。