与えられる教え、みのよろび。
得るこころ、こころのよろこび。
喜びは瞋恚が晴れた「こころ」
思いやぶられ、知らされる現実にはなにがありますか?
南無阿弥陀仏がある。
信心や仏教を知らんでも南無阿弥陀仏がある。
救いたまえ、助けたまえという苦悩の心がある。
その心が南無阿弥陀仏なんだ。
南無阿弥陀仏が無い現実は批判の世界。
そこには怒りしかない。
怒りを破るのが「歓喜」
我がおもいどうりという、束縛のいかりの苦悩の身。何かが欲しいということは。「私のおもいどうりになれ」と怒り嫉みがあるんだ。

そして南無阿弥陀仏の名号を聞くとき、私一人じゃないんだよと。あなた一人じゃないんだよと。共にいる喜びを感じて下さい。
阿弥陀は大悲です。教えではない。そこにふれるんです。
名号は教えではない。大悲だ。本願だ。心だよ。
考えなくても感得できるもんなんだ。
それが教えなんだ。わかるもんじゃない。響くもんが教えだよ。
聞くのは、この身が相応した。うなずけた姿なんだ。そこに反応出来た姿なんだ。
その姿、心が大切だよ。

「聞其名号 信心歓喜」