先回の九転十起 1 では、広岡浅子や浅野総一郎と大隈重信の交流に触れましたが、その続きを書きます。



   大隈重信の名演説

大隈は非常に弁舌が巧みで説得力があり、熱してくると、「○○○であるのであるのであ~る!」と、「あるある口調」になる。こうしたことを二十年以上も前から書き溜めていたが、つい先日のドラマで、高橋英機が演じる大隈がやはり「である」を多用した口調で演じていたので私もうれしくなったしだいだ。

演説は「人を動かす力」がある。早稲田の「弁論部」が伝統ある理由でもあろう。

ドラマになるのは、越後での「小資本石油会社の合同の必要」を説いた大隈重信の名演説である。

明治中期前半、越後では中小の石油採掘業者が互いに激烈な競争を続けていた。その隙間に食い込んできたのが外国資本イントル(インターナショナルの地元の人の呼び方)であった。放っておけば、この外国大資本に日本の中小石油業者は潰されてしまう。

そんな時に、大隈重信が動いた。以前(明治22年)、凶客に受けた爆傷で右足が不自由であったにも関わらず、汽車で日本各地を訪れた。

明治345月の「小資本分立の弊害」の演説は日本の石油史上に残る演説であった。

「たがいの足を引っ張り合っている場合ではない」と諭し、国産石油界の統合を呼びかけたのだ。

3410月から、「宝田石油第一次合同」が猛烈な勢いで始まる。浅野は以前から関係のあった宝田石油を核としての合同を実現するために、辣腕の部下.藤井洪一(老舗油問屋寺田忠兵衛の夫婦養子となり、寺田洪一と改名)に自分の娘を嫁がせ、宝田石油の基地となる長岡に送り込み、二人の新婚生活が始まったのもこの10月であった。

その直後から宝田石油(株)の実績はウナギ゙登り。販売の達人.浅野はそれまでに既にサミュエル.サミユ社のロシア油を「浅野のタンク油」とし、寺田屋とも協力し、名古屋以東の全国販売ネットを築いた実績があり、石油運搬のタンク車を持ち、最新の精油所開発、かつパイプラインでの送油、自社での削井にも実績があった。

 それまで、ほんの小さな会社であった宝田石油を核として、翌35年5月には、宝田石油本社を長岡に移した。その新築パーティーが開かれ、松方幸次郎.大隈重信、渋澤栄一、浅野総一郎に記念の金杯が贈られた。 

 翌36年10月までの2年間に、浅野製油所等30石油会社・組合の合同が実現し、新進の宝田石油(株)は日本石油(株)を追い越す勢いとなった。このことは、当時の売上記録のグラフを見れば明らかである。

 この一連の動きはケタ違いの外国資本に対抗する為であった。うっかりすれば、植民地にされかねなかった日本が、先進列強の諸外国と闘うために、日本の産業や資本を育てることに懸命に努力した先人たちがいた。


 浅野総一郎と大隈重信の交流

 大隈重信は浅野総一郎とも世間が思う以上に縁が深い。あまり世間に知られていないことの一つが、「早稲野球部のアメリカ遠征」への東洋汽船による応援である。

「浅野は明治43年(1910)5月、早稲田野球部団員の渡米送別会を紫雲閣で催し、大隈重信も出席。嬉しい一日であった。

「隻脚となって以来、他家の紹待を受けて賓客とつなることを辞退していたが、この席は浅野氏が我が貧乏学校の生徒渡米の挙を援助されるという厚意に報いるために喜んで出席しようと快諾したしだいである」と、大隈は誠意と熱意を込めて語った。大隈自身は謙遜して、早稲田のことを「我輩の貧乏学校」などと自ら言っているが、学校経営は常に苦難と大勢の善意の応援が必要だったのである。

 「運事業に大隈より奨励の言葉を受け、大隈氏の早稲田大学の野球団を自らの東洋汽船で米国に送ることの喜び」を浅野は述べ、大隈の来訪を謝した。こうして交友は晩年まで続く。

 大隈は浅野を「山に譬えれば妙義」と評し、変化に富んだ人生を愛でた。寄付は基本的には「お金」だけではなく、「持てるもの」の寄付もある。そのことは日本女子大の敷地を浅ちゃんの実家の三井家が寄付したことでもわかる。

 教育機関への寄付を率先して行った安田善治の第三銀行、加島銀行や鹿島屋八代目などについてもまた機会があれば述べたい。

〔冊子コア 2016年3月号 後半より抜粋〕