新田純子





今、人気の朝ドラに関連して、九転十起の浅野総一郎と広岡浅子について先回に述べた。

 異なる点、似た点などをさらに追ってみる。幕末から明治、大正の近代日本の黎明期、激動期を再現できるからである。近代日本を創るために奔走し、努力奮闘した人々に思いを馳せる為にも、今の朝ドラ「朝が来た」を心から楽しんでいることを多くの人々と共有したい。



《二人の浅ちゃん  その共通の応援団 》

 明治維新の20年前、嘉永元年3月、現在の富山県氷見市の海辺の村で一人の元気な男の子が生まれた。後の京浜工業地帯の父であり、さまざまな基幹産業の創始者となった浅野総一郎である。

 それからおよそ1年半後、老舗の三井小石川家6代の三井高益の娘.浅子が生まれる。後の広岡浅子であり、日本女子大学創設などに尽力した女実業家である。

 片方は地方の小さな村の半農半医.石高40石の村医者の子。一方は、押しも押されぬ老舗大商家の娘。この二人の出発点は明らかに異なるが、明治維新という激動の壁を乗り越え、近代国家建設という大きな目的に沿って、それぞれ精一杯に生きる。その共通の知人として、先回、渋沢栄一、大隈重信、西園寺公望その他を挙げた。さらに金融王の安田善次郎や三井家そのものに関しても述べたい。しかし、頁の都合で次回になりそうだ。

 浅野は明治9年夏に渋沢栄一に出会い、その働きぶりに驚嘆される。城山三郎の小説.「勇気堂々下巻」にもその場面が生き生きと書かれている。渋沢が関わる多くの事業は後に芙蓉グループとされ、浅野系が多く含まれている。

当時の若手の民間人は渋沢を介して、政財界の大物たちとの交流も生まれる。また大物たちも、お互いの交友は密であった。

今回の朝ドラでは浅が上京する場面があり、2月2週目では大隈重信に熱心に思いを訴え、感動した大隈は即座に、

「女子教育の大学設立のために、大隈、出来る限り協力をさせていただきましょう」と約束。おそらく、この時の大隈の心中は、渋沢栄一らを巻き込み、財界人に呼びかけ、寄付の賛同者を集める方策を考えたことであろう。

大隈がこう決心したのには、大隈自身が「早稲田学校(後の早稲田大学) 創設」にはひとかたならぬ苦労をしたからである。


  早稲田創設の経緯

明治14年に政界を辞した大隈重信は、教育の必要性を感じ、今日の早稲田大学の前進である「早稲田学校」の創設に奔走した。

学校経営、特に創設立期の経営は大変で、寄付も思ったように集まらないのが実情である。そんな時、大隈重信に一番に手を差し伸べたのが安田善次郎であった。

その時の寄付について、大隈重信は次のように語っている。〔一部 中略〕

「私は明治14年に朝を退いて、すぐに早稲田の学校をこしらえた所がこれが頗る経営困難で、公然寄付金を募るということをした所、なかなか意の如くならない。自分が大蔵卿参議〔明治6年~1410月まで〕をしていた頃、たまたまある日、安田翁が重信を訪ねられて、自分から進んで寄付金を下された。その時は別に私から求めなかったのである。なんら縁故のない安田さんである。これが重信の学校事業を率先して助けてくれた。国家の為にお尽くし下さるというような頗る謙遜な言葉でこの寄付を下された。所がこのことを伝え聞いて、安田さんが尚且寄付されたというので、大分早稲田への寄付金が集まってきた。私は滅多に人のところへ礼に行くことはしないが、この時は横綱の屋敷に礼に行ったことがある」

最初に財界の大物である安田善冶郎の協力を得たことは、大隈を非常に力ずけた。当時から安田善次郎と親しかった浅野総一郎も勿論、協力。澁沢を中心として安田善冶郎.大倉喜八郎、浅野総一郎らで様々な新規ビジネスに挑戦していた時期があったが、これらの人々その他の財界人.民間人らへと「早稲田学校への寄付」の輪が広がった。



 「早稲田校賓録 

私の手元に1冊の本「早稲田校賓録がある。  「早稲田大学を支えた人たち」という本で、早稲田大学創設期の寄付者名簿録である。ここには、明治の財界実業家たちの名前がずらりと並んでいる。その目録の、かなり速い時期の寄付者として安田善次郎、浅野の名は勿論、日頃の実業家仲間の大倉喜八郎その他の名がある。

この実体験がある大隈は、即座に広岡浅子のために一肌脱ぐ決心をしたのであろう。

日本女子大の創設者となる成瀬仁蔵が、『女子教育論』を発表したのが明治29年(18965月。その輪は徐々に広がる。さすが、広岡浅子が加わるやスピードアップ。大学創設協力に奔走し、明治34年にはや、日本女子大学校開校式に漕ぎ着けている。1回入学者510名。

大物の大隈重信さえも浅ちゃんの行動力に刺激されたのか、翌35年1902から再び早稲田学校への寄付運動を本格化した。専門学校から大学へ昇格させ、名称も「早稲田大学」となる。

寄付運動は1次、2次...と数回に亘り行われ、しだいに裾野を広げた。浅野も安田も数度に亘り、時には名を伏せての寄付を行っている。「売名行為」とのそしりを受けたくない純粋な寄付の為である。安田の寄付は明治35年(1902)の第一期大学基金にも2千円を寄付し、1908年(明治41年)11月には学園最初の校賓に推されている。早稲田創設の歴史とし、これら寄付者の恩義を「早稲田大学校賓録」として記録してある。

少し紹介するならば、前島密.松方正義.大倉喜八郎.安田善次郎.森村市左衛門.竹内綱.渋沢栄一.伊藤博文.田中光顕.鍋島直大.そして浅野総一郎.安川敬一郎.原田次郎.西園寺公望.三井高保など政財界の75の名が連なる。年齢順や寄付金額であるが、一民間人としての浅野の名はかなり前にある。

寄附者に早稲田は感謝し、『校賓』とした。校賓になってからも安田善次郎は第二期大学基金に1万円の寄付を寄せている。





このように、二人とも大隈重信との交流も密であった。