今年の冬は温暖な気候が続き、まあ楽と言えば楽ですが、これから来る春夏が心配になってきました。
冬の間に充分な雪が降り積もっておかないと、春夏に山が乾きあがり川の水位も下がります。
干ばつで森が枯れ、動物たちの食べ物が減るだけでなく山火事の危険も大きくなります。
川ではサーモンの遡上が遮られ、畑では農作物にも大きな影響が出てきます。
冷夏でも作物はよく育ちませんが、逆に猛暑や乾燥で起きる大規模な山火事の煙も農家にとっては深刻な問題です。
山火事の煙は1000km以上離れたところからでも風に乗って流れてくる事があり、そうなると何日も、ひどい時は数週間も、どんよりと煙たい灰色の空の下で暮らすことになり、短い夏を楽しみたい私達もなるべく外出を控え、強い雨が炎も煙も洗い流してくれるのを待つのみです。
まだ子供達が小さい頃、ペンバートンから車で2時間ほど山道を走ったところにあるLillooet(リロエット)という町にトマトを採りに出掛けていました。
山奥の谷間の小さな集落、という表現がぴったりの西部劇に出てきそうなこの町には第二次対戦中に日系カナダ人達が強制的に収容された歴史もあります。
この谷間を下る道の奥に、リロエットの町があります。
町の入り口にある湖の水は美しいクリスタルブルー。夏でもとても冷たいけど、静かなビーチはピクニックに最適。
冬は深い雪で道路が閉ざされ夏には砂漠のように猛暑となるこの辺境地に送りこまれた日系人達は、先住民から借りた馬や鋤を使って乾いた土地を耕し、灌漑を整備し、自分達でトマト作りを始めました。
そして地元の人達が驚くほど美味しいトマトを育て、次第にそのトマトは列車でバンクーバーまで運ばれ、B C州で最も美味しいトマトと呼ばれるほどになりました。
のちにはカナダの会社が缶詰やソース作を作るほどビジネスとしても成功。
それに加え、日系人達が集まって作った野球チームと地元チームの試合を通しての交流、そして終戦の少し前にリロエットにやってきた日本人医師の存在により、戦時下での日系人に対するネガティブな感情は優しく敬意を持ったものに変わっていったといいます。
戦後も数年間は自由を手に入れられなかった日系人達。この土地に留まる人もいれば、中には遠く馴染みのない日本に強制送還された人もいたとか。
最初はそんな歴史もよく知らずに「すっごく美味しいトマトが採れるファームがあるから子供達連れて行こうよ」と友人に誘われてロードトリップ気分で年に一度出掛けていました。
クネクネの山道を約2時間・・・子供達は毎度車酔いになって可哀想だったけど、それでも瑞々しいトマトや新鮮なフルーツはもちろん、湖畔でのピクニックや一日2便だけの小さな列車が来る駅に、子供達も大はしゃぎ。
川でサーモンを釣る人々や、森と川が交差する道中の景色。そしていつもトマトを採り過ぎて途方に暮れたこと。どれも懐かしい思い出です。
この美しさ!で、帰宅後はソースやドライトマトを作ったり、瓶詰めにしたり、友人たちはマメにやっていたけど、私はそんな気力もなく近所の友達に配った後はカットして冷凍
このファームスタンドで計量をしてお金を払います。他の野菜やフルーツだけでなく蜂蜜やピクルスなども売っていて買い物も楽しい!
これがトマト畑。地面に這うように育った茂みの中に隠れてゴロゴロとトマトが生っています。
ところが数年前に起きた山火事の煙の影響でその夏はトマトが育たず、その後も冷夏やコロナが続き、3シーズンほどトマト狩りの機会がないまま、ついに2年前の夏にそのファームは「今シーズンは営業を中止します」と発表。
代々受け継いできたトマトやフルーツがどうなってしまうのかと、とても悲しいニュースでした。
翌年の初夏には「また畑を再開するよ!」とFacebookにポストがありましたが、その後の情報は全く更新されていません。
リロエットに最後に行った時、ファームの人が日系人のための石碑があることを教えてくれました。
ファームから丘に伸びる道を登っていくと、そこには立派な石碑が町を見下ろすように立っていました。
丘の斜面には近年流行りのワイナリー、その下にファームがあり、谷底を流れる川を挟んで向こう側に町の中心地が望めます。
中心地と言っても、そこは小さな建物が軒を連ねた通りが一本あるだけで、そこから丘の方へ少しずつ散らばるように住宅が見えます。
80年前にこの地に送られた日系人達はどんな思いでこの谷を眺めたのでしょう。
実は私の母は、日本からはるばるペンバートンに来てくれた時に1人でドライブしてリロエットまで出掛け、日系人医師・宮崎氏の旧邸を見学してきたそうです。
仕事から戻った私に「今日ね、リロエットっていうところまで行ってきたわ」とサラッと報告してくれたけど、あんな山奥まで、途中に町もお店もガスステーションさえ無い山道を、よく思いつきでドライブしたね・・・とちょっとビックリ(笑)。
でもさすが私の母。
行ってみないと感じられない空気感や歴史の跡を自ら訪れてくれたことは、カナダに暮らす娘としてとても嬉しく思いました。
移民としての暮らしは時に苦労も伴いますが、かつては敵味方であった私達日本人がカナダで温かく迎えられ平和に暮らせるのは、多くの先人達の偉業のおかげだとしみじみ。
今戦争をしている国々にも色々込み入った事情はあるでしょうが、どうか近い将来、同じような“奇跡”が起きてくれることを心から祈らずにはいられません。