昨日の朝刊で、高等学校の教科書検定の結果について大きなニュースになっていました。
実はワタシは、このなかのある教科の教科書、5冊くらいに検定意見をつける仕事をしていました。
去年の今頃~夏前まで、結構大変な思いをしながら、でも確実にやりがいを持って、仕事をしたつもりでいます。
ワタシなりに、学習指導要領の中味をどのように伝えていったらいいのか、高校生に何を伝えるべきなのか、そして当然のことながら、執筆者や出版社の人の考えを最大限に尊重しようと、一生懸命に向かい合って仕事をしました。
なので、今回の検定結果についての報道は、とても感慨深い思いで見ました。
検定にかける際、出版社の名前が分かったり、そこから執筆者が漏れたりすると、検定に私情が入り込んでしまうため、検定のための教科書は白表紙。
もちろん出版社名も執筆者名もありません。
(実際ワタシの周りにも、教科書会社にお勤めの先輩も、教科書執筆している先輩や友人もいますし…)
でも、各社のカラーが出ていて、学校側も教科書についてはいろんな選択ができるんだなーとか、とても面白く拝見しました。
…で、最終的な結果。
ワタシたちのような中を見てコメントをつける人の意見を集約して、役所でオエライさんによる審議会か何かにかけられ、出された結果です。
それはそれで仕方がないと思うのですが、なんか報道だけを見ていると、ずいぶんつまらない教科書になってしまったような感じがしました。
いろんなポリシーをもった会社や執筆者が作り上げた教科書が、なんだかことごとく、無難な線に押さえられてしまったという感じがするのです。
来月から出来上がった教科書が展示されるようなので、とりあえず実物を見に行こうとは思っていますが…
ていうか、義務教育ではない高等学校の教科書を検定する意味ってなんなんでしょうか。
教育って、なんなんでしょうか。
本質的な問題だけれど、ワタシには全く分からなくなりました。
ていうか、もともと分かってなかったんだと思うのだけど、実際に文科省にかかわって仕事をしてみて、余計に疑惑が沸いてきたという感じです。
なんというか、「いい教育」ってなんなんでしょうかね。
ワタシ自身の両親をはじめとした周りの人や学校で教育を受けてきた経験を思い起こしてみたり、いつも学生と接する中で考えたりしていく中で、ワタシなりのポリシーというか結論のようなものはあります。
人によって教育のイメージや目標って違うとは思うのですが、ワタシとしては
「自分自身で確信をもって判断を下し、自分が決めたことに対して努力をし責任を取る」
という人間を育てていくことが教育だと思っているし、ワタシは若い人にそういう風になってもらいたいと思って接しているつもりです。
(偉そうに言ってるけれど、ワタシもこんな風にはなれてませんが…。とセルフツッコミ)
でも結局、当然と言えば当然かもしれませんが、国が考える教育って違うんですよね。
とにかく理想像を示し、そこからはずれた人間をなるべく作らない。
出る杭は打たれる。
そういう教育を6・3・3の12年間続けることによって、国が動かしやすい人間を作り上げる。
教育には国税がずいぶん投入されているから、当然といえば当然かもしれませんがね…
今回の教科書検定の結果も、この姿勢がとてもよく現れているように思います。
でも、でも。
小学校や中学校の義務教育なら、まだ理解できますよ。
一応日本人として共通っぽい判断基準を子どもに教え込む。
それはそれで一つのやり方だし、基準を持たせることは大切なので、それはいいと思う。
でも、高校生にもなって、教科書をいちいち検定して、役所がチクイチ口を出して…ってどうなんだろうと思ったりもするのです。
大学になれば、いきなり教科書検定もなければ学習指導要領もなく、突然教員に100%依存した形の授業になっちゃうわけで。
この変わり身の速さっていったい何?、高校生と大学生の違いってそんなに180度変わっちゃうの?みたいな。
ちょっと興奮気味なので、脈絡のない文章になってしまってますが、
「教育ってなんだろう」
って、ワタシのなかで、ずいぶん深く考えさせられるお仕事となりました。
ちょっと精神的に疲れたかな。
役所に勤めるワタシの先輩は、もっと憔悴しきってる様子ですけれど…