世の中便利になったもので、主要連絡手段のEメールやPCのワープロ機能等により、自らペンを執り手書きをする事が少なくなった。
誰でも簡単に綺麗な文字で文書が作成できるのだから、使わない手はない。
しかし、その一方で弊害が発生しているのもまた事実である。

その昔は<手紙>という手段だったのだが、今や<メール>の時代である。
PCにしろ携帯電話にしろ送りたい時に送り、読みたい時に読む。
便利であるといえば便利であるが、何か殺伐としてはいないだろうか。
昔の<手紙>の代表格は<ラブレター>。
どきどきしながら自分の想いを文字に託して書いた思い出がある。
文章を間違えないように、漢字を間違えないように、そしてめいっぱい綺麗な文字で綴った事がとても懐かしい。
結果はほとんどフラれたわけだが、なんとも人間味溢れるやり取りであった。
必死で書いた一文字一文字や、行間に見え隠れする想いが相手にどう伝わるのかが本当に心配であった。

しかし、今は愛の告白も<メール>で行うらしい。
なんとなくそっけない感じがするが、それが時代なのだろう。
だが、<メール>には文字の必死さは表現できない。
「なんとか綺麗な字で書いたものを読んでもらいたい」と思っても不可能である。
表現するのが難しいが、極めて2次元的な<メール>に対して、<手紙>には2次元であるにも拘らず、3次元的な感覚を持たせてくれる魅力があったように思う。
それは、相手の状況や姿かたちなどを思い浮かべながら読む事が出来たからなのかもしれない。

<メール>で思う事は、正しい日本語の使い方と正しい漢字の使い方を忘れてしまうのではないか?ということ。
そして、文字を手で書かなくなる事による手書き文字の汚染。
かくいう私もほとんど機械任せになってはいるが、仕事柄漢字を多用する為、業者への発注は未だに手書きである。
PCにデータを打ち込めばそのまま発注できるものを、態々手書きにしているのには訳がある。
それは、「手で書く」作業を残す事により、現状よりひどい手書き文字にならない事を防ぐ為でもあるし、PCでは変換できない漢字もたくさん存在するからである。
当社の社員を見ても、年齢相応の文字を書ける人間は少ない。
(汚い文字を書く私が見てそう思うのだから、救いようがない)
30代から40代の社員が多い当社であるが、それこそ稚拙な文字を書く者が多いのには驚かされる。
その字で書いた見積書をお客様にお渡ししているのかと思うと、申し訳なくなる。
私も他人の事を言えた義理ではないが、少なくともお客様に渡す書類は読みやすい文字で書くように心がけている。

<手書き文字>だけをとってその人の人格を判断する事は出来ないが、少なくとも読む相手に良い印象を与えないのは事実である。
本来は年齢と共に文字に年輪を感じさせるものがあるのだが、手書きをしなくなる事によりそれも薄れていくのだろう。
ただ、いくつになっても稚拙な文字しか書けない様であれば、社会生活の中で恥をかくのは当の自分自身であるのは間違いない。
当然「読めればいい」のであるが、「みみずののったくったような字」をいい大人が書いていたのでは、なんとも情けない話である。

そしてもうひとつ。
「漢字の忘却」がある。
手書きで書いて覚えていたものが、機械に頼る事によりその字を忘れてしまう。
忘れてしまっているのだからPCで変換した漢字が正しいのかどうかもわからなくなる。
使わないということは恐ろしいもので、どんどん忘れていってしまうようだ。
職業柄一般の方より漢字にはうるさい方だが、それでも忘れてしまうのである。
「ただボケてきた」だけなのかもしれないが。。。

今後も私自身は手書きの作業を続けるつもりである。
これ以上「ボケ」ないためにも。