新聞のお悔やみ欄を日々チェックしている
21時前になると
翌日の紙面に載る最新のお悔やみ情報を見る事が出来る
今日も若い方の名前を見つけ
なんとも言えない気持ちになる
いや、いくつで亡くなっても
家族や友人たちにとっては悲しいものだろうが。。。
自分はいつの間にか54になっていて
お悔やみ欄に掲載されてもいいような感じだが
やはり20代は早すぎる
どうでも良いことだろうが
病気だったのかなとか
事故だったのかなとか
それとも。。。。。
本当にどうでもいいことだとわかっているけれど
気になってしまう
生きている者には必ず死が訪れる
20代だからまだはやいとか
思いがちだけれど
寿命は最初から決まっているのだと
なんとなく思っている
ちょっと話は逸れるが
本当に感覚的なモノでしかないのだけれど
自分は1960年代に生きていて
何らかの事情で亡くなり
またすぐに1970年代に生まれた気がする
今はやり直しの人生のような気がしてならない
ずっとそんな事を思っているが
なんだかこの事を考えると
無限ループにハマってしまうので
いつも適当なところで考えるのをやめる
とりあえず明日のお悔やみ欄にも
知り合いの名前を見つける事はなかった
お悔やみ欄に名前を載せない方は
色々な思いや都合があるのだろうが
亡くなった方とお別れが出来ないっていうのは
どうにもこうにも
気持ちの整理が出来ないままで
なんともスッキリしないものだなと思う
そういえば
自分を可愛がってくれていた友人のお父さんの時は
亡くなったのが事故だったというのもあったのか
一週間後に新聞に載せていた
仏壇に手を合わせに行っているけれど
亡骸とのご対面が出来なかったというのも
なんだか不完全燃焼のお別れの様な気がしてならない
身体は魂の入れ物でしかないけれど
その魂の入れ物との
お別れをするということは
大事なセレモニーなんだと思う
今
村上春樹の長編をゆっくりゆっくり読んでいるが
死んだら
読書ってできなくなるのだろうか
ふとそんな事を思う秋の夜
寒いから早めに布団に入って本を読もうっと