基地の朝は早い。
湿った土の匂いと、微かに混じる航空燃料の香りが鼻をつく。
整備兵たちの金属音が遠くで響いているが、それ以外は驚くほど静かだ。
出撃前の身支度をする。
身に纏う飛行服は、昨日までのそれとは少し重みが違うように感じる。
鏡を見ることもなく、淡々と紐を締め、千人針を胴に巻く。
指先の感覚はいつも通りだ。震えてもいなければ、熱を帯びてもいない。
ただ、冬の朝の冷気が、布越しに肌を刺している。
最後の食事。食堂には、白い米と味噌汁が用意されていた。
湯気が細く立ち上り、消えていく。
箸を動かす音だけが、等間隔で室内に落ちる。
「美味いな」
誰かが呟いたが、誰もそれに応えない。
胃に落ちる熱が、自分がまだ生きていることを無機質に伝えてくる。
飛行場の滑走路には、九九式艦上爆撃機が並んでいる。
朝日を浴びた機体は、鈍い光を放っていた。
風防を拭く整備兵の背中を見て、ふと思う。
あの男の家には、まだ幼い娘がいたはずだ。
遺書は昨晩、机に置いた。
「お元気で」
それ以上、書くべき言葉が見つからなかった。
感謝も、後悔も、愛着も、この薄暗い空の色に溶けて、ただの記号になってしまったようだ。
操縦席に身を沈める。
計器の針が、エンジンの始動とともに細かく震え始める。
チョークが外され、機体がゆっくりと動き出した。
視界の端で、誰かが白い布を振っているのが見える。
それはただの風景の一部だった。
スロットルを押し込む。
重力が背中を押し、尾輪が地面を離れる。
高度が上がるにつれて、地上の喧騒も、人の営みも、すべてが小さな模型のように縮んでいく。
プロペラの回転音だけが、耳を支配していた。
雲の切れ間に、青い海が見えた。
今日は、よく晴れている。