世界の不条理と自分自身。
世界は不条理に満ちている。
やりきれないニュースが多いし、そもそもそのニュースの信憑性もまったくもって疑わしい。
それを嘆き悲しむのは自由だ。
憤って何かを弾劾したくなる人もいるだろう。
ただ、忘れたくないのは、世界に在るという事は、世界と相関性を持っているという事だ。
不条理の生成に、自らの存在も関わっているのだという真理を、意識していたいという事だ。
つまり、嘆き悲しむ暇に、考え、提案し、憤って何かを弾劾する暇に、試行錯誤すればいいのだ。
音声を垂れ流すだけならば、人間である必要はない。
感じ取り、考え、行うからこその人間だろう。
かくいう私も、まだまだ、思いも浅く、行いは覚束ない。
せめて胸を張り、周りを、そして「前」と思い定めた方向を見据えて、日々進みたいものである。
何に触発された、という訳ではない。
強いて言うならば、世界の不条理さに駄々をこねたくなる、自分自身への戒めとしての日記だ。
やりきれないニュースが多いし、そもそもそのニュースの信憑性もまったくもって疑わしい。
それを嘆き悲しむのは自由だ。
憤って何かを弾劾したくなる人もいるだろう。
ただ、忘れたくないのは、世界に在るという事は、世界と相関性を持っているという事だ。
不条理の生成に、自らの存在も関わっているのだという真理を、意識していたいという事だ。
つまり、嘆き悲しむ暇に、考え、提案し、憤って何かを弾劾する暇に、試行錯誤すればいいのだ。
音声を垂れ流すだけならば、人間である必要はない。
感じ取り、考え、行うからこその人間だろう。
かくいう私も、まだまだ、思いも浅く、行いは覚束ない。
せめて胸を張り、周りを、そして「前」と思い定めた方向を見据えて、日々進みたいものである。
何に触発された、という訳ではない。
強いて言うならば、世界の不条理さに駄々をこねたくなる、自分自身への戒めとしての日記だ。