父が迎えに来た。


この背景にどういったやりとりがあったのかはわからない。


ただ、4歳の12月に母の故郷へ脱出をし、

5歳の12月に父が迎えに来たという事実が記憶にある全てだ。


玄関にて父と祖父と母のやりとりがあり、

僕は父から当時アニメではやっていた「オーガス」という変形ロボのおもちゃを

もらい、えらく喜んでいた。


この後の展開は急だった。

事情のわからないまま母の故郷を去り、

途中、東京に住んでいる母方の叔父夫婦宅に立ち寄る。


この時の記憶は曖昧だ。

僕達家族4人で行動していたのか、

父だけが先に車で帰ったのか覚えていない。


断片的な記憶を辿ると、東京から母と新幹線に乗って帰ったのは

覚えている。


ということは東京まで父と行動を共にしていたのだろうか?


なんにせよ僕達はまた、あの家に帰るのだ。



1月、えべっさん。


保育園に復帰をする。

友達はみんな歓迎をしてくれて、一年前、疑問だった「えべっさん」について知る。


とても賑やかなお祭りだった。


ちょうど一年経っていたんだなーと実感してしまう。

友達とえべっさんのお祭りに行き、そこから暫くはまともな生活が続いていた。


2月、以前書いた女の子からバレンタインチョコをもらう。

ハート型の大きなやつ。


僕は母親が迎えにくるのを待っていた。

すると、あきちゃんとその母親が僕の元へやってきて

恥ずかしそうにあきちゃんが僕にチョコを渡してくれた。


ありがとう。そう言いながら言葉を交わし、

あきちゃんとあきちゃんの母親を見送った。


後になって僕の母が迎えにきたとき、ことの経緯を話すと

母はなんだか嬉しそうだった。僕は事情が飲み込めていなかった。


3月、僕は6歳になり、そしてホワイトデーのお返しをする。

母が買ってきたハート型の緑の容器にマシュマロが入ったものをあきちゃんに

手渡す。お互い照れていた。


そして僕達は卒園した。

園の広間で後輩の園児達の手で結んだトンネルを抜け、卒園する

園児一人一人に花が配られた。


僕とあきちゃんは別々の小学校に通うことになり、

お互い住所交換をした。



4月、僕は小学生になった。


僕にとっては祖父母の家にずっと居た方が

幸せだったと思う。これから起こる出来事の数々は当時の僕にとって

ごく自然の日常であった。疑問もなく受け入れていた。


しかし、当たり前だと思っていた日常は自分の生育環境だけに限られた話で、

社会的に見て、これは異常なことだったのだろう。


ねじれていた家が、再び、どうしようもないまでにねじれ、

内患だけに思われていた問題が外患にまで及ぶ。



お爺ちゃんの家にいたときが一番恵まれていました。

なんでせっかく脱出に成功したのに、帰っちゃったの?ママン・・・(T_T)




あー今思い出した。

姉の学校の問題だって昔、言ってたな。


だったらじいちゃんとこで手続きしたらよかったのに。


アメリカでバタラーの更生プログラムをやったら、ほとんど改善されなかったという

結果があるそうな。昔聞いた話なので、詳細はわからないけど。


母が自宅に戻るきっかけに恐らく僕や姉の学校の問題があった。

後は父が更生する・・・とかで折れた。


でもね、暴力振るう人間は変わらない。更生プログラムなんて意味ないじゃん。

プログラムに参加してますよ。更生しようと努力してますよ。


だいたいのバタラーはそうやって「フリ」だけをしているのではないだろうか。


なんにせよ母は自宅に戻るという選択をえらんだ。


この選択が今後どういう展開になったのか当時の母としても知る術はないだろう。


何にしても当時の母は、母なりに精一杯頑張ったのだろう。

だからどんな選択をしても、仕方なかったんだろう。



ケ・セラセラ


祖父母の家に脱出していた期間は一年になる。


4歳の冬から5歳の冬にかけてだ。


祖父母の家ではみんな親切だったし、僕も姉も楽しく暮らしていた。


二階の窓から除雪車の作業光景を眺めていたり、祖父と近隣へ散歩にでかけたり、

家の軒下にできたツララを折って姉と遊んだり。


ずっとこの生活が続くんだと僕も姉も信じて疑わなかった。

それくらい僕達家族にとっては穏やかで、平穏な日々だったのだろう。


冬が終わり、春を迎え、僕は一つ歳をとる。



そして短い春は終わり、夏がやってきた。



祖父に手をひかれて近くの川に遊びにいく。


とても大きな川なのに水深も浅く、流れも緩やかだった。

水遊びをしている間祖父は煙草を燻らせながらいつも陽気に話しかけてくれた。


秋になり、寒さが増した。


冬になり、地面が凍りつく頃、母が帰宅しなかった。


心配になった僕達は祖父に聞いた。


どうやら母は凍結した地面で足を滑らせ頭を怪我したようだ。


帰宅しない間というのは恐ろしく長く感じられ、1ヶ月は帰ってこなかったという

印象がある。実際は2週間とかだったのかな。


頭にネットを巻いた母が帰ってきた。ごめんね、ごめんね。と僕達に繰り返す。


雪がまた僕の背丈を越えたころ、左の奥の歯が抜けた。

家族みんなで表に出て、僕は屋根に向かって抜けた歯を投げた。



自宅の軒下にツララができた頃、母の頭の傷も癒え、ネットはもうつけていなかった。


夕方、姉と二人近所の材木屋さんの敷地で遊んだあと自宅に戻ると、


自宅前に一台の茶色の車が止まっていた。



それは見覚えのある父の車だった。



母の生家に移ったのは4歳の冬で、まだ新年は迎えていなかった。


最初の一週間は毎日夜20時40分になるくらいに、祖父母宅の黒電話が

けたたましく鳴っていた。


父は仕事が終わると寄り道などはせず、毎日正確な時間に自宅に帰る。



20時30分。



実家に居た頃、僕達家族には魔の時刻ともいえた。


この時刻を迎えると決まって窓に車のライトの光が映りこみ

続いて鈍い車のエンジン音が聞こえてくる。


父の気に障ることのないよう、「20時30分」までに完璧に迎え入れるようにしなければ

ならなかった。へまをすることは許されない。まさに父の時間だった。


つまり、20時40分前後というのは父の時間がはじまっているというわけで、

何かしら、母に難癖をつけようと電話をしているに違いなかった。



僕の記憶は証明する。



この日も父の時刻になると電話があり、母が電話に出るのをためらった為、

かわりに僕が出た。


用件を簡単に説明するとこうだ。


「あのぼけぇ、真珠のネックレスどこやってん?すぐ返せって言うとけ!」



この手の人達は、常に誰かを責め続けないと生きていけないのだろうか?

常に誰かを傷つけ、搾取し、罵り、人間の尊厳まで奪おうとする。


普通の夫婦関係や恋人関係にしてみれば「プレゼント」をあげるなんて

ごくありふれた行為だと思う。


だが、この人達には責める材料にしかならないのだ。

受け取っても責められ、きっと受け取らなくても責められる。



理由なんてないのだろう。



こういった人種に常識を求めるのはきっとナンセンスなのかもしれない。



当時4歳の僕にはそんな考察などできるはずもなく、

ただただ、父の機嫌を損ねまいと受話器の先、遥か遠くの父に

愛想笑いをしながら精一杯時間稼ぎをするしかなかった。


母に代わるとまた怒られるだろう。

いないということにすればいい。

言伝は僕から伝えるから・・・と。


どれぐらい話をしたかわからない。

ただ、父からの伝言を伝えた時、祖父も母も怒っていたのが印象的だ。



僕は小さくて、事情がわかんなかったけど、



やっぱり父は怖い人なのだと思った。



祖父母の家での生活が一週間も経つと父からの電話もピタリと止んだ。



ちょうど年も明けて新年を迎えたあとのことだった。