*映画『ヒミズ』を観ての感想をつらつらと書きます。
ネタバレ箇所を大量に含む文になりそうなので、これから観に行かれる方は読まずにおいてください。

土曜日・昼間。早く観たいと思っていた映画版『ヒミズ』の7時20分の回の席をヨメと観るべくネットで2枚押さえる。観る前にマンガを読み返しておこう。そう思って本棚から全4巻を抜き出し、近所のカフェへ。隣に座っていた20代前半の女子ふたり組のひとりがもうひとりにできたばかりの彼氏自慢を嬉しそうにしていて、その横の席でひとりで「ヒミズ」を読んでいる40代後半のおっさんの僕は気持ち悪がられるんじゃないか、と思う反面、彼氏自慢女子による和やかな空気に水をさしたくなってあえてそのコミックの陰惨な表紙が彼女たちの目に触れそうな角度で読んでみたりしながら、その悪意は「ヒミズ」に出てくるおっさんとさして変わりないんじゃないかと、そんなこと思いながら読み進めるうちに「ヒミズ」の世界観に共振してどんよりしだした自分に気付く。2巻の途中まで読んだところでカフェを出て、家に戻ってまた終わりまで読む。このコミックの1巻を僕が買ったのは奥付を見たところ2001年で、ということは驚いたことにもう10年以上が経っているわけだ。
10年以上ぶりで読んだのに、あっさりと共振し、同調してしまうのに十分なそのマンガのリアル。住田のなかに“あの頃”の自分を見つけ、同時にああはできずに生き続けている自分との差異を考えたりしながらメール・チェックやらをしていたら夕方になったので支度して新宿へ。
『ヒミズ』を観た。終わって立ち上がってすぐに感想を口にし合う僕とヨメ。まわりの人に悪いので小声にするが、言いたいことの大きさですぐにまたふたりとも声が大きくなる。そのまま焼き肉屋に入ってマッコリ飲みながら2時間半、ひたすら『ヒミズ』の感想だけをあれこれ語り合う。『モテキ』『監督失格』に続いて、あれこれ感想を言い合いたくなる映画ではあったということだ。
いい映画だったかどうかというその判断は難しい。イエスかノーではまだ答えられない。喉に引っ掛かった小骨がとれない感触が続いている。小骨が喉にあり続けるのと同じようなスッとしない感じがまだ、ある。よかったシーンもけっこうある。が、なんでそう撮るかね?と文句を言いたくなるようなシーンがもっとある。ハッキリ答えられるのは、原作と映画のどちらが好きかと問われれば、それは間違いなく原作のマンガ版だということだ。
マンガ版と映画版はまったく別ものだと、誰かがツイートしているのを先に見ていた。で、映画を観ると、終わり方を除けば話は大きく変えていないし、セリフも思いのほかマンガに忠実だった。年齢設定を極端に変えた登場人物(=夜野)がいたり、マンガに出てこなかった登場人物が何人かいたり、何より震災後という現代設定にしたところは大きな違いだが、それでもまあ大枠ではマンガの話運びに沿っている。表面上では「まったく別もの」というふうではない。がしかし、にも関わらず、伝わってくる感触と観終えたあとに残る感覚があまりにもマンガと異なる。まさに「別もの」。
マンガの話を大枠で追いながら、園子温監督はまったくマンガとは別ものの映画を作り、まったく別の「メッセージ的なるもの」をそこに込めていた。その「メッセージ的なるもの」にこっちが同調するか否かが恐らく評価の分かれ目で、僕はというとそこが自分でも未だハッキリした態度で答えられないままのところか。
まずマンガと180度逆にふりきった肯定的なエンディング。観ているときには実はストレートにグッときた。宣伝写真なんかでよく使われている前からふたりを撮ったシーンの、あの染谷将太くんの表情は忘れられないほどグッときたし、二階堂ふみの「がんばれ住田!」のあの声も胸に響いた。いいシーンだと思った……が、細かいことを言うなら、そのあと後ろからふたりを撮ったショットになると走り方がやけに疲れているように見えて、先へと続くその長い道をこんな走り方でこのふたりは進んでいけるのかと心配にもなって少し冷めた。できれば前からのショットのあと、スパーンと切って終わってほしかった。というのがひとつと、そこでこうちょっと冷静になるなら、やっぱりあれだけのもがき方をしていた少年がこんなにおさまりのいい判断をしてこんなふうに泣いて一緒に走るだろうか、と。茶沢さんにとってはそりゃずいぶんとポジティヴなというか、してやったりのとも言えるひとまずの結末だが、住田はそういう決断をするやつだったのか、その程度の絶望だったのか、それはどうなのか、甘くないか、セカチューじゃないんだから、とか、一歩譲って例えばせめて並走はしないでひとりで茶沢さんの先を走ろうとするという描き方ではダメだったのかとか、そういったことが頭のなかにグルグルまわりだして、つまりこの後味いいふうの終わり方が結果的に僕にはやっぱりどうも後味悪いようなのだ。
生への希求、渇望、それに希望をメッセージとする監督の意図はわかるし、実際この若いふたりのそのシーンには生への希求と渇望が脈打っていたし、茶沢さんの「がんばれ」はブルーハーツの「人にやさしく」のように「叫ばなくてはやりきれない思い」の「がんばれ」だったのだろうから響いてきたのだし、そこはそことして青春映画的なとてもいいシーンだったとは思う。思うが、でも“悪いやつ”を探して街を徘徊したあの住田がこういう判断に行き着くかと考えると、どうしたってそれは「ないでしょ」と思わざるをえない。父親を殺して罪の意識に苦しんでただけっていうならわかるが、そういうことじゃないのだから、話としてこれはやっぱり不整合だ。というか、不整合なだけならまだここまでの違和感は持たなかったかもしれないが、何か嫌な感じがどっかに残ったのは、大人の(園子温監督の)ていのいい希望や道徳感みたいなものをこの子たちに仮託している点で、本来そういうことをもっとも息苦しく思ったりそういう大人に憎悪を抱いていたはずの住田がそこに取り込まれてしまったかのような残念感。取り込んだのはほかでもない園子温監督自身であるわけだけど、へんな話、マンガを先に読んで住田に対して特別な感情を持ってしまった僕のような人間としては、そういう映画監督の押しつけにも逆らって暴発する住田であってほしかったというふうにさえ思ってしまう。
染谷将太はいい。彼の演技は素晴らしい。とりわけ死んだ目と、憎悪や絶望感の上に立った罵りの言葉の吐き方がいい。あんなにも諦念を宿した表情をあの若さでできる役者はあんまりいないだろう。で、そういう彼の演技に魂がこもっているから、このようなエンディングでも僕は観ているときにはストレートにグッときた。が、二階堂ふみ演じる茶沢さんがきつい。マンガ版と違いすぎる。いや、違う性格を持たせるのは、それは監督の意図であり、映画は監督のものなのだからいいのだけど、しかしそれにしても映画版の茶沢さんにはまるで感情移入できない。汚い言葉で申し訳ないが、はっきり書くなら始めから終わりまでひたすらうざい。おせっかいの度合いを超えた病的な押しつけがましさと高すぎるテンションとキャンキャンした声が癇に障る。その極みが最後に一コ一コ意味を持たせながら説明的に石を投げるシーンと、住田に自首を勧めるところで、マンガでは終始クールで、冷めていて、そのクールな茶沢さんが「……君が死んだら……この先悲しくてやってられません……」と言葉を発し、警察に連絡したことを泣きながら「だってこうするしかなかったんだよ……」と謝るから胸を突かれるわけだが、映画のように自ら自首を勧めて絶望せずに生きていこうみたいなことを言われると住田じゃなくても観ているこっちが「はぁ?」となる。好きだからという理由にのっとった身勝手で学級委員的な自意識が癇に障り、セックスもしていないのに住田はこの子の一体どこに気持ちを持っていかれたんだろと疑問符ばかり浮かんでしまう。純愛・青春ものとしてのキレイさ・ピュアさを残したかったからなのかどうか知らないが、セックスを描かず、言わば淡い恋心が芽生えた程度でこの結末・この住田の決断に至るのはやはり不自然に思えてならない。これじゃ普通のイマドキの若者みたいじゃないか。
また、オフビートで進んでいくマンガ版に対し、園監督は「これがオレブシだ!」と言わんばかりのテンションの高さを重ねてエモーション!エモーション!エモーション!という撮り方をいつものようにしているわけだが、それゆえ本当に肝心なエモーションの暴発場面の説得力がそがれる。映画のなかの住田は前半から何度もうわあ・うがあと叫んでいるので本当にどうしようもなくなって叫びたかったところの説得力が弱まってしまっているし、もっと残念なのは、マンガでは1度だけ涙を流す住田が映画では度々泣いていて、本当に涙があふれ出してしまってどうしようもないという場面の説得力がやっぱり弱まってしまっていることだ。住田のみならず映画では茶沢さんもよく泣き叫ぶし、被災した中年設定になった夜野正造(渡辺哲)までもが叫ぶ。それはもうウルサイほど。いや、それが園ブシだとはわかっているが、「ヒミズ」を題材にしてまでもそれをやらなきゃいけないのかと、どうしても思ってしまうのだ。
あと、震災以後ということに関しても描かずにいられなかった監督の想いはわかるし伝わるし、それはいいのだけど、夜野が金子(でんでん)に住田の父親の借金を返す場面で言う、子供には未来があるのだからみたいなあのセリフ。あれは説明しすぎだし、「どうですか? 僕はこのことが言いたいんですよ」、もっと言うなら「いい映画でしょ?」とでも言いたげな園監督のどや顔が浮かんできたりもして、ちょっと嫌な感じがした。
そもそもでんでんと渡辺哲が言い合ったり殴り殴られをしてる時点で『冷たい熱帯魚』のあのふたりがどうしたって浮かんでくるわけで、そこでもっともらしいことを言われてもなぁ。
園組と言えそうな常連役者たちをたくさん出すことは、どこか以前の作品のパロディにも思えてしまい、むしろよくない効果となっているようにも思えてならなかった。
それに吹越満と神楽坂恵…特に神楽坂恵はここに必要ですか? ファンタジックなシーンを特にこのふたりに請け負わせることの意図とはなんぞや? ましてや黒沢あすかと堀部圭亮のあのくだりと、出しっぱなし感。いる? 必要? ああいう変質的な親環境があるがゆえに、病的なまでに愛を押しつける子になったと、そういうことを伝えたかったの? と、そのへんの意図がやっぱり不明というか腑に落ちないし、なきゃいいのになぁと思わざるをえない。因みに吹越満のジャケットや神楽坂恵の真っ白な服が最後までうす汚れずキレイなままだったことにも僕は違和感を覚えたのだが、あれは被災者をホームレスのように見せないという配慮のもとでああしたのだろうか、どうなのか。
染谷将太くんは繰り返すが本当に素晴らしかった。あと、脇でハマっていたのはムラジュンと新井浩文と、そして誰より窪塚洋介で、この年代のこのへんの役者さんはみんないい味出すよなぁと改めて思った。とりわけダントツで魅力的だったのが窪塚くんで、街でスリをしているときのあの身のこなしにはうっとりさせられた。まるでIWGPのタカシが戻ってきたみたいで嬉しかったね。華があって、彼が出ているときにはほかとは違うふうに画面がキラキラするのだ。とりわけ笑ったのが、久々に観ることのできた窪塚キックの際のあの言葉、「脱・原・発!」。最高である。あれって窪塚くんのアドリブだと思うとヨメが言ってたが、僕もそんな気がする。どうなのかな? ああ、窪塚くん主演の映画がまた観たいよなぁ。なぁー。