2月14日(日)


Bunkamura シアターコクーンで、「血は立ったまま眠っている」。


興味を惹かれるキャストだったことと、新聞での評がよかったことから、観たかった芝居だった。
なので、ヨメと共に久々の観劇。


少し早めに行ってBunkamura内でランチをし、開演まで時間があったので金子國義展へ。
昔、氏の画を用いた加藤和彦作品のLPジャケットを部屋に飾っていたことがあった。
ポストカードを3枚購入。


そしてシアターコクーンへ。
観客の、実に9割以上が女性。
どうやら大半が主役の森田剛のファンであるようだ。
リピーターもかなり多いようで、開演前、既に何度か観ている女性が初めて観る友人女性にどのシーンの森田の表情がいいかを熱く話していた。


「血は立ったまま眠っている」。
寺山修司が23歳のときに書いた処女戯曲で、それを蜷川幸雄が演出したということにおいても話題になっていた芝居だ。
同世代(同年生まれ)で同じ演劇の世界にいながら、寺山修司の存命中にふたりの接点がなかったというのは、ちょっと意外。


以下、評というより、感じたことをいくつか。
(ネタバレ的な部分を含むので、これから観に行かれる方はご注意を)


まず、セット~美術にパワーがあった。
とりわけ、若きテロリストたちの主な動きの場になるステージ左手のトラックと、前科者やずべ公たちがたむろしていて上には首つり死体がぶら下がっているステージ右手の床屋の、その真ん中に配置された公衆便所。
この配置の意図を考えるだけでも脳が刺激される。
何日か経ってこの芝居を思い出そうとしたとき、きっと僕の頭にはまずこの公衆便所が浮かぶだろう。


但し、背景にあった「レコード」とか「トルコ風呂」と書かれたネオン。
あれは時代背景(1960年)を表す記号として、いささか安直すぎはしないかと思ったりも。


役者陣については、まず森田剛が評判通り、いい。
動きもいいが、とりわけ声がいい。
馬鹿がつくほど純粋で、青くて、ナイーヴで、愚かで、それ故の切なさが滲み出ている。
僕はずっと昔に彼をテレビで見ていて“いい面構えだな”と思い、きっとある程度齢をとってから開花するタイプだろうと睨んでいたのだが、いよいよそのときが来たということだろう。
役者としての底知れない大きな可能性がまだまだ潜んでいるようだし。
開花のきっかけを作った蜷川さんに、彼は頭が上がらないだろな。
彼を悪の主役においた犯罪映画なんかも観てみたい。


一方、窪塚洋介は、あれは演出であえてそうしているのか、やけに抑えた演技をしているように見えた。
観ながら僕は、静から動へと転化する際の彼の爆発力を期待していたのだが……。
ただ、今までのドラマや映画での彼の演技とはだいぶ違っていて、勘やセンスに頼らずとても丁寧に芝居をしようとしているのがわかった。
初舞台だそうなので、これによって演技に対する意識が変われば、これからが実に楽しみ。


ところで、ポスターやフライヤーの写真で窪塚は舌を出している。
ネタバレになってしまうのでその意味は書かないが、やはり窪塚は、IWGPのキングのときからアッカンベーの似合う男だ。
カーテンコールでも彼は舌を出してみせた。
それだけでゾクゾクくる感じがある。
それに、やはりあの肢体。
完成されてるよなぁ、しなやかだよなぁと、男の僕でも観ていて惚れ惚れする。
あと、カーテンコールのときに、一瞬ミチロウと目で何かを語り合っているように見えたのが印象に残った。
窪塚くんって基本的に感化されやすいタイプだけど、ミチロウに感化されたりしたらまた表現者として面白くなっていくだろうし、そうなったらいいなとチラと思った。


その遠藤ミチロウだが。
なんで僕がこの芝居を観たかったかと言えば、ズバリ、ミチロウが出ているからだった。
寺山修司との表現の線の繋がりは言うまでもないし、スターリンの全盛期に蜷川さんが絶賛している記事を読んだ記憶もある。
ミチロウと蜷川さんの対談というのも昔、本で読んだ。
といったこともあり、蜷川さんがこの寺山作品の重要な役にミチロウを選んだというのはよくわかることだった。


で、期待した通りというかそれ以上というか、やはりミチロウの存在感は圧倒的だった。
ある意味、見せ場のいいとこを全部ミチロウが持ってったという印象すらある。
なんたってこの劇の初っ端からあの悲鳴のような叫び。
2部では髪が立ち、メイクもいつものアレになっていたが、とりわけ最後の出番の歌がもう凄まじかった。


この劇で、ミチロウは寺山修司の詩に曲をつけて歌っている。
そして、その歌はブルーズなのだ、パンクではなく。
だがミチロウが歌えばブルーズもパンクになる。
いや、彼のパンクが今ではブルーズにまで昇華されているとも言える。
そこに凄みがあった。


公演パンフレットを買って帰ったのだが、その配役紹介の文中、ミチロウはこんなことを話している。
「これまでも役者をやりたいという願望は全然ありませんでした。そこへお話をいただいて、“これは天命なのかもしれないな”と」
「別世界にはまっていく感じを楽しんでいます」
「この役を通して、まるで自分の原点に戻るような不思議な感覚を味わっています」


因みにミチロウは今年還暦なのだそうだが、還暦にして新しい表現(芝居とブルーズ)に立ち向かい、そして自らの原点に戻る感覚をも味わっているというあたりが、なんというか……尊敬してしまうというか羨ましいというか、表現者としても男としてもステキだ。カッコイイ。
前に、2009年はアラ還のいろんなアーティストたちからたくさん元気をもらったというようなことをこのブログに書いたが、ここでのミチロウを観て、また僕はそんな感じになった。

(そういや昔、ミチロウさんの家にお邪魔してインタビューしたことがあるですよ)


あと、存在感という意味では、床屋の六平直政さん。
僕の席のそばの通路に剃刀持って来たとき、その表情がまじで怖かったです。
それから日野利彦さん(「追悼のざわめき」!)とマメ山田さんの、そこにいるだけで空間が歪んでいくほどの存在感も圧倒的。
それとあとスカジャン着た若い男が、なんともこう力の抜けたセリフ回しで、それが逆に怖さに繋がっていて。

この役者さん、誰なんだろって気になってパンフを見たら、柄本祐という人で、柄本明の息子さんだった。

なるほど、それであの独特の声の出し方なのね。


といったふうに、あの空間のなかでどの人物も生き生きと自己の存在や躍動や苛立ちを表していたように見えたのだけど……ただ寺島しのぶに関してだけはハッキリ言ってミスキャストだったんじゃないかってところで僕とヨメの意見は一致。
いや、好きな女優さんではあるけど、でもやっぱりあれで少女と言われてもねぇ……。
もう少し若い人で誰かいなかったんかな。


役者のことについて長々と書いてしまったが。
何より、観ながらビシビシ刺さってきたのは、やはり寺山修司の託した言葉の数々だ。
特に主役の若いふたりの内側から絞り出されるようにして発せられる言葉たちはどれも切実で、胸をえぐるようなものがあって、これは改めてちゃんと本を読みたいと思ったりもした。


また、毒気とノイズと異臭と猥雑さが常にある空間の活気は、吐き気がするくらいにヌルくて気持ち悪いJ-ポップが普通に流れてるようなこの現代からすると、僕には羨ましいとすら感じられた。


なんか、観たことで、しゃんとした。


あと、若い頃にちらっと舞台やってた僕的には、なんだかいてもたってもいられなくなるようなヘンな感じがあったりもしたなぁ。


あともうひとつ、ただ「剛くんを近くで観たい!」というだけで来てた人たちが、これを観てどう感じたか、何を受け取ったかも興味深いところですよ。

ってか、蜷川さん、ある意味これ、究極のS的プレイじゃないすか?!(笑)



「怒るくらいなら泣いてやる」