この映画の見どころは、完成に近づいたときのパフォーマンス映像よりも、音決めや演出決め、ステージでの位置決めといった、その作り込みのプロセスに向きあってるマイケルを捉えた映像のほうにある。と、僕は思っている。
そっちが主軸で、完成に近づいたときのマイケルのパフォーマンス映像は、むしろボーナス映像みたいなものという捉え方をしてもいいんじゃないかと。


で、その作り込みのプロセスを映したシーンで、やはりとりわけ興味深いのは、ミュージシャンと直にやりとりしながらライヴ・アレンジを決めていくところだ。
わけても印象的なのは、今回のミュージカル・ディレクターを務めていたキーボードのマイケル・ベアデン(マドンナ、ホイットニーほか)に「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール」のイントロの鳴らし方・響かせ方を指示するところ。
ベアデンが低い音と高い音の繋ぎとして真ん中の音を足して弾くのを、マイケルは「ノーノー。シンプルに」と指示。つまり音はレコード通りの2音だけでよくて余計なおかずは加えなくていいんだという意味の主張をし、そのかわりに「余韻を残したい」とか「月光に染みる感覚で」といった具合に響かせ方のほうに拘る。
このイメージの伝え方自体がイマジネイティヴだしわかりやすいし、楽器をやらない人特有の創造性がそこに見える。


こういう伝え方に象徴されるように、マイケルには完成形のビジョンがかなり明確に見えているわけだが、それをビジョン……つまり自分に見えているそのままの絵として他者にも伝える。
多くの人がブログとかで「細かく」「完璧に」伝えるところがすごいみたいなことを書いてるけど、そんなことはなくて、細かくというよりはけっこうイメージをザックリ伝える感じだ。
「ここはこうで、ここはこうして、で、ここはこういうふうに」という伝え方はしない。
僕と一緒に(音を、またはステージを)作っていく優れたミュージシャンなら、僕に見えているその曲の絵をイメージして音を出してほしい、出してくれなきゃ務まらないというハッキリした態度が根底にあるのがわかって、そこは面白かったところだ。
でも、それは僕には驚きじゃなくて、思っていた通りのマイケルだった。


それから、確か「スムース・クリミナル」のときだったかで、マイケルが客席のほうを向き、その後ろのスクリーンで起こっていることに反応して歌い出さなくてはならない演出のところ。
オルテガは、映像が見えないだろうから自分がキュー出しをしようかと言うのだが、マイケルはそれを必要ないと言い、「感じるから」と当たり前のように言う。
優れた役者やミュージシャン、鍛えられた役者やミュージャンは、“後ろにも目がある”なんてふうにいったりするが……、うん、マイケルのこのキッパリした言い方の自信はさすがだと思ったな。
後ろにも目がある…つまり客席を見ててもバンド・メンバー全員の動きや音を“感じて”、その場をしきりながら歌うことができる人と言えば、真っ先に浮かぶのがJ.B.とプリンスなんだけど、マイケルもやっぱりそういう人だってこと。
で、そこも面白かったところ。
でも、それも僕には驚きじゃなくて、思っていた通りのマイケルだった。


(なんで思っていた通りだったかっていうと…)
マイケルがHISTORYツアーを始めたとき、僕は日本公演の前にシンガポールにも観に行き、そのときのミュージカル・ディレクターを務めていたキーボーディストのブラッド・バクサーとギタリストのデヴィッド・ウィリアムスにインタビューをして、マイケルについてのこんな話を聞いていた。


「彼は、ステージでは歌や踊りに必死になってるように見えるかもしれないけど、僕が思うに世界中のアーティストのなかで彼ほど後ろのメンバーが今何をやっているか把握している人はいないと思うね。例えば僕が疲れてて集中してなかったりすると、パッと振り向いて“もっと集中しろよ”って目で合図を送ってくるんだ。あるいは、“カモン!”って言って踊りの輪のなかに僕を巻き込んだりしてね」(デヴィッド・ウィリアムス)


「彼は言葉であれこれ言ってくるよりは、音楽的な流れのなかで自分がやりたいことを理解させるほうだね。例えば次のステージで少しアレンジを変えたいと思ったら、彼はちょっとした音譜を僕に渡して、それっきり当日のリハまで何も言わないんだ。あとはステージ上で目で合図してきたり。それで素早く反応できないなら、彼との仕事は務まらないだろうね」(ブラッド・バクサー)


こうした証言からイメージしていた僕のなかでのマイケルと映画のなかのマイケルとに、ぶれがなかったということだ。


それから、マイケルの人柄の本質がもっともよく出ている場面~言葉に、イアーフォンの音のかえりが大きすぎて「耳に拳を入れられてるみたいだ」とか言ったあと、「怒ってるんじゃないんだよ。L-O-V-E」みたいに言い加えるところがあって、僕もここは「だからマイケルのこと好きなんだよぉ」ってハートを射抜かれちゃった場面なんだけど、これに象徴されるように、マイケルは決して怒ったり苛立ったりせずに相手を立ててピースフルに物事を前に進めようとする。
ジュディス・ヒルに対してもオリアンティに対してもマイケル・ベアデンに対しても、そういう気遣いの言葉を使う。


もの作りの過程において、いちいち苛立ったり怒ったり声を荒げたりしないと進められないタイプの人ってどこにでもたくさんいるけど、僕は昔からそういう人が大嫌いで、「なんで怒らないと進められないかなー」といつも思っちゃうほうなので(「怒るくらいなら泣いてやる」っていうくらいの人間なんでね)、マイケルのこういう進め方にはおもいっきり共感しちゃう。
でも、そういうところも僕には驚きじゃなくて、まあ思っていた通りのマイケルだった。



そんなこんなで、初めて観たはずのああいう場所でのマイケルであるはずなのに、僕には初めて観たという感じがまったくしなかった。
「マイケルってこうなんだー?!」っていう発見はそんなになくて、むしろ「マイケルって、“やっぱり”こうなんだー」という確認をしたような感じだった。
イメージと違っていたマイケルはいなかったということだ。
(それはもちろん、感情としては「嬉しかった」っていうことですよ)


「発見」ではなく、「確認」の映画。
僕のなかでは、これはそういうところが大きく、だからけっこうたくさんの人が「今まで抱いていたマイケル像と全然違って…」みたいなことを書いてるのを読むと、「へぇ~、そうなんだ~」と不思議な感覚になってしまう。


そのこと自体は、映画の評価には別に繋がらないけど、この映画がここまで絶賛されて、みんながみんな“今になって”マイケルのことを、やっぱり凄かっただの天才だっただの優しい人だっただの愛の人だっただのと称賛しているその感じには、僕はやっぱり違和感を持ってしまうのだなぁ。


はい、『THIS IS IT』話、次くらいで終わりにしたいと思ってます。



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文中で紹介した、HISTORYツアーのときのミュージカル・ディレクター=ブラッド・バクサーとギタリスト=デヴィッド・ウィリアムスのインタビューは、この本のなかの「HISTORY WORLD TOUR スペシャル・ライブレポート」(96年・記)で読めますよ。と、軽く宣伝。