僕がサザンのデビュー曲「勝手にシンドバッド」を初めて聴いたのは、NHK・FMでやってた甲斐よしひろの「若いこだま」(70年代だからまだ「サウンド・ストリート」になる前ですね)でだった。
甲斐さんが、とんでもないバンドが出てきた、これが売れなきゃウソだ、みたいなことを興奮気味に喋って、それで「勝手にシンドバッド」をかけたのだ(確か発売日よりけっこう前だったと記憶している)。
ラジオの前で僕はひっくりかえった。
ガッツーーーーーーンときた。
うわー、なんだこりゃ~~、だった。
その衝撃たるやもう!
僕の30数年間のポップ・ミュージック・リスナー歴の中で、恐らくそれは最大級の衝撃だったと思う。
こりゃやばい、とてつもない、時代変わっちゃうかも。
そう思った。
そんなふうに思った日本のアーティストのデビュー曲ベスト3っていうのが、僕の30数年間のリスナー歴の中でハッキリあって、それは何かというと……。
1位がサザンの「勝手にシンドバッド」。
2位が宇多田ヒカルの「タイム・ウィル・テル」(これはデビュー曲じゃないですね。デビュー曲「オートマチック」のカップリング曲でした。が、最初にレコード会社から届いた音は、当初デビュー曲にする予定だったらしいこっちで、僕はこっちにやられたのだった)。
3位がRIZEの「カミナリ」。
いずれも初めて聴いたときの衝撃がとてつもなく、そのときに10回くらい繰り返して聴いたものだった。
まあ、2位と3位についてもそれぞれ思うことはいろいろあるのだが、それ書くとまた長くなるからね。
とにかく甲斐さんのラジオで「勝手にシンドバッド」を初めて耳にして以来、発売日をまだかまだかと待ち、そして学校の帰りに、石神井公園の西友の2階にあったレコード屋さんでそのシングルを買ったのだった。
1978年6月25日。
「勝手にシンドバッド」の発売日、つまりサザンのデビュー日。
内本順一、高校1年。
これ、発売日に買った人って何人ぐらいいるんだろ?
ってなこと考えると、ちょい得意気になったりも。
そして、その1ヵ月後。
早くもサザンのライヴを観るチャンスが訪れた。
それは忘れもしない、1978年7月23日。
場所は日比谷の野音。
これ、実は甲斐バンドのライヴだった(中学生のときの僕は甲斐バンドの大ファンだった)。
甲斐さんはストーンズと同じように、自分の気に入った新しいバンドを前座に抜擢していて、この日、甲斐バンドの前座を務めたのが、やはり自分の番組でかけて熱を入れていた柳ジョージ&レイニーウッド。
で、さらにその前座として最初に登場したのがサザンだったのだ。
「いつか甲斐バンドを前座にしてやりたい」と、このとき桑田さんはそんなことを「なんちゃって」みたいな感じでぼそっと言って照れ笑いしてたけど、まあ、そういう野心は本音としてあったんでしょうなー。
(桑田さんのオールナイト・ニッポンの第一回放送でも確か同じことを言っていた記憶があるし)
因みになんでその日の野音のライヴが僕にとって「忘れもしない」ものかっていうと。
その日、僕はつきあっていたレイコさんと一緒にこのライヴを観に行き、ライヴを観終わって食事したあと、銀座で別れの手紙を渡されたから。
予兆などまったくなく、僕にとっちゃウキウキのデートだったのに。
レイコさんはこのライヴを最後に別れることを決めていたのだった。
人生で最初のきっつい失恋記念日。
頭の中で流れていた曲は、「別れ話は最後に」。
そして「勝手にシンドバッド」。
まさにそんな気持ちだった。
わけがわからず、僕は「勝手にシンドバッド!」と言葉にして言いたい気持ちだった。
その頃はというと、「勝手にシンドバッド」ってタイトルからして冗談みたいだとか、コメディ・バンドっぽいとか、日本語としておかしい、何を歌っているのかわからん、メチャクチャな言葉を乗せているだけだと、そういうことを言ったり書いたりしているメディアがたくさんあって、僕はばっかじゃねーか、なんもわかってねーなー、とか思っていた。
「さっきまでオレひとりあんた思い出してたときシャイなハートにルージュの色がただ浮か」んでいたそのときの僕には、こんなにも自分のそのときの感情にフィットして、こんなにもぐらぐら胸を揺さぶるリアルな歌はなかったからだ。
それで思いあまって、僕はひとりで茅ヶ崎方面にまで出かけた。
江ノ電に乗り、「江ノ島が見えてきたー」とか心の中で歌いながら、確か稲村ケ崎だったかで降りて浜辺にしばらく座り、別れの手紙をやぶって、寄せてくる波に流した。
キャっ、恥ずかしっ。
「あーめーがー降ってるのにー、そーらーは晴れているー、まして今夜は雪がふーるー」。
そのときの僕の心の中はまさにそんな感じでもあって、これもまたああなんてリアルな歌詞なんだーとおもいっきり切ない気持ちで口ずさんでいた。
整合性がどうとかじゃなく、そんな次元を超えたところで、桑田さんの歌詞はぐさぐさびしびし心に刺さり、そりゃもう共感なんて程度じゃないぐらいに僕の気持ちに重なっていた。
その「別れ話は最後に」や「勝手にシンドバッド」を収録したサザンの1stアルバム『熱い胸さわぎ』が出たのは、甲斐バンドの野音の失恋からまたちょうど1ヵ月後だった。
1978年8月25日。
浴びるように聴いた。
本当に文字通り、毎日毎日浴びるように聴いた。
高1で、僕は陸上部で中距離を走っていて、夏休み中は光が丘まで練習しに行って、倒れそうなほどの暑さの中を何セットも400や800を走って、吐いて、家に帰ってからはずーっとこのアルバムを聴いていた。
失恋して辛くてばかみたいに走っていたその78年の夏の暑さが、『熱い胸さわぎ』には張りついている。
でもその当時はといえば、学校で「サザンがいい」とか言っても、まだ理解してくれるやつなどいなかったな。
あ、ひとりだけいたっけ。
同じ陸上部で一緒に走っていた春日井って男で、そいつはギターを弾いていると言っていた。
「いとしのフィート」がいいと、そいつは言った。
こいつは信用できると、僕は思った。
因みにそのとき僕はまだリトル・フィートを聴いたことがなく、兄の影響でリトル・フィートも聴いていたそいつが自分より大人に思えたりもちょっとした。
話が前後するが、「夜のヒットスタジオ」と「ザ・ベストテン」にサザンが続けて出て「勝手にシンドバッド」を歌ったのもこの頃だった。
アルバムはもう出ていたのか出る前だったのか記憶が曖昧だが、もちろん両方ともしっかり見ていた。
ライヴハウス(新宿ロフトだったっけ?)からの中継でジョギパンで歌ってたザ・ベストテンは家で見てたのだが、それ以上に夜ヒットのインパクトが強く残っている。
というのも、それ、僕は家族旅行として行っていた宇佐美の海の家で見ていたからだ。
それを見終わったあと、従兄弟と海沿いのオールドアメリカン調の喫茶店に行ってコーラを飲んだ。
そこにはジュークボックスがあって、僕はその夏にFMで聴いて気になっていたストーンズの「ミス・ユー」を入れた。
うわー最高だーと繰り返し入れ、結局3~4回続けて「ミス・ユー」を入れた。
そして東京に帰ってから「ミス・ユー」のドーナツ盤を買い、少ししてから池袋パルコで12分のロングヴァージョンを収めた12インチ(12インチの走りですね)も輸入盤で買って、そこから僕のストーンズ狂いが始まったのだった。
つまり、サザンに入れ込み始めた78年の夏は、ストーンズに入れ込み始めた夏でもあって、僕という人間の形成においてそれはもう実に大きな意味のある夏だったというわけだ。
これも『熱い胸さわぎ』が出る前だったか出たあとだったか記憶が曖昧なのだが、とにかくサザンに入れ込みまくってしまった僕は、なんとファンクラブにまで入ってしまったのだった。
「サザンオールスターズ応援団」(今もあるようですね)。
会員番号は確か60番代。
ファンクラブというものに入ったのは、後にも先にもこのとき限り。
しかし、翌年、3枚目のシングル「いとしのエリー」が出たときにはもうやめてしまった。
「いとしのエリー」。
誰もが認める名曲だ。
今回、日産スタジアムのライヴでも、このピアノのイントロが聞こえた瞬間にグッときてしまった。
けど、リリース当時、僕はこの曲を聴いたときに、それまでの尋常じゃなかったサザン熱がちょっとひいた。
キレイによくできたこの「いとしのエリー」、僕は浴びるように聴いた『熱い胸さわぎ』の10曲や2ndシングル「気分しだいで責めないで」に比べると、いい曲だとは思ったもののリアルにグサッと刺さるものは感じられなかったのだ。
いや、わかってます。名曲ですよ。文句つけるのおかしいですよ。今は僕も大好きですよ。
でも、そのときの僕の心情にはフィットしなかったというか、たぶんね、曲自体のこともあるけど、もうひとつ、それまでコメディ・バンドだとかなんとかサザンを真っ当に評価してなかった世間が掌返したようにいきなり絶賛しだしたその感じに違和感をおぼえたっていうのもあるんでしょうね。
- まあ、そんなことも含めていろいろ書きだしたらきりがないんだが、なにしろ衝動的にファンクラブにまで入ってしまうくらいに僕はデビュー当時のサザンにやられていたと。
アルバム『熱い胸さわぎ』にはこのように思い入れも思い出もありすぎるほどにあって、まさにそれはそのとき、熱い胸さわぎとしか言いようのない、それまでに味わったことのない感覚をもったものであったと。
日本のロック史における傑作中の傑作、しかも日本のロック史のそれまでの流れとはまったく無関係に突然でてきた異色作であって、このアルバムへの思いだけで僕は何万字だって文を書けるしいくらでも酒が飲めると。
そんな感じのものなんであります。
もう少しこの当時の話を続けると、その78年の12月10日。
サザンは九段会館で初のワンマン・ホール・ライヴを行なった。
もちろん観に行った。
「新曲ができない」「ノイローゼ、ノイローゼ」と「ザ・ベストテン」だったかで叫んでいた桑田さんがやっと書けたという2ndシングル「気分しだいで責めないで」を11月にリリースして、その直後のライヴだった。
まだアルバム1枚分の曲しかレパートリーがなかったサザンは、本編でもやった「勝手にシンドバッド」と「気分しだいで責めないで」を、アンコールでももう一度やった。
そのアンコールの前に、興奮した1階席の観客が立ってどーっと前のほうに押し寄せ、一度中断して座らせるというようなハプニングもあったことを覚えている。
僕も興奮していた。
何か特別な熱気がそこに渦巻いていた。
RCサクセションの久保講堂と並んで、サザンの九段会館は僕にとって生涯忘れられないライヴのひとつだ。
ちなみに料金は2000円。
そういう時代でした。
因みにそのデビュー・コンサートの1曲目は、今出ているワッツイン誌(表紙がサザンの号)のデータで確認したところ……おおっ、「いとしのフィート」だった!
アルバムのラス曲「今宵あなたに」と並んで、特に僕がしびれていた曲だ。
その「いとしのフィート」、今回の日産スタジアムで一体何年ぶりだかわからないが聴くことができ、昨日もちらっと書いたが、それで僕はいきなり前傾姿勢になって熱くなってしまったのだった。
ふーっ。長いねー、この文。
でも、まだ続きます。
オヤジの昔話にもうちょいお付き合いくだされ。




