皆さんこんにちは!
のんさんダブルワーク始めたんですね!思えば私たち、お仕事を始めた出発点は一緒でしたが、ずいぶんと違う道を歩き続けているのだなぁと思いました。道は分かれてもこうやって色々な思いを共有できるのはとてもいいですね。…とブログを読んでいて改めて感じました。
さて、わたくしは‥と申しますと、相変わらずモヤモヤイライラしながら1歩進んで2歩さがり・・・と思えば一挙に10歩ほどダッシュして大きなしりもち着いたりと自分の感性の赴くままに進んでおります。そんな中、先日、『異端者の家』という映画を観てきました。
現在Humaxシネマで上映中の、ヒュー・グラント主演のサイコスリラーです。
あのラブコメキングのヒュー・グラントが“狂気をはらんだ孤独な男”を演じるというだけでとっても気になっていたのですが、 実際に観てみると、その演技はやはり圧巻でした。
狂気の中にもどこか理性的で、そして皮肉めいた上品さもあって、ただのサイコスリラーには収まらない重たさがありました。
本当に思っていた以上にずっしりと来る映画でした。
あらすじは・・・・
若いモルモン宣教師のふたりの女性が、布教活動の一環として、森の中の一軒家を訪ねます。 そこで彼女たちを迎えるのが、ヒュー・グラント演じる男・リード。
最初は穏やかで理知的に見えたその男が、 次第にふたりの“信仰心”を試し、追い込み、支配していく構図へと変わっていきます。
でもこの映画の怖さは、単なるホラー的な恐怖ではありません。
「信仰」と「自信」――その境界線が、音もなくじわじわと崩れていくような、 精神の奥をざらつかせるような怖さなのです。
映画を観終わったあと、友達と感想を言い合いながら食事をしていて、ふと考えてしまいました。
異端者は、孤独でいる間は自由だけれど、仲間を欲したときに、独裁者へと変わる危うさがあるな・・・と。
自分の中にも、そんな影がある気がして少し怖くなりました。話をしていた友達にも「リードに近い考え方じゃない?」って言われたりして。
リードと同じかどうかはわかりませんが、かつて私は、組織の中でどちらかと言えば「異端者」として生きていたと思います。
全体の空気に違和感を覚えると、すぐに流されず、 おかしいと思うことには、表立たずとも小さく抵抗していた。 どこかで、「私は私の正しさを持っている」と信じていました。
周囲に完全に同調することができない不器用さに、 どこか居心地の悪さを感じながらも、 同時に「でも、それが自分らしさでもある」と思っていた気がします。 そんな自分が少し誇らしくもあったのかもしれません。
今の私は、もうその組織にいません。 外側に出て、自分で選び、自分で判断しながら日々を進めています。
そして気づいてしまったのです。
「あのときの“正しさ”は、組織という土俵の上にあったからこそ、成立していたのかもしれない。」と。
今、私を評価してくれる上司も、同調してくれる同僚もいない。 正しさを語る相手も、間違いを示してくれる枠組みもない中で、 果たして私は、自分の“正しさ”を信じ続けられるのか?
自由になったはずなのに、今の方が、少しだけ不安で、少しだけ心細い。 私の正しさを誰かに理解してほしい。・・・そう思ったとき、ふとこんな風に感じました。 組織とは、ある種の宗教なのかもしれないなと。
そこには理念があり、空気があり、正しさがある。 「信じること」が求められ、「従うこと」で安心が得られる。
異を唱える者は、“異端”として静かに浮いていく。 でもそれでも、組織の中にいる限り、 異端者であっても「枠の中の存在」として守られていたのだと思います。
そして今、私はその枠の外にいるわけです。 誰にも守られない異端者――それは、ようやく手にした“本当の自由”であると同時に、 “支えを失った不確かな自分”でもあります。
それでもなお、 問い続ける自分を持ち続けていたいと思いました。 誰かを従わせるためでなく、自分自身に嘘をつかないために。
・・・とまあ、そんなことをぐるぐる考えている今日この頃でございます。へへへ・・・・
魔女になるのも大変だ! Jun-JUNON