父が亡くなって、自宅は売却することになり、私は保育園の近くで一人暮らしを始めました。
父がいる時でさえ、自宅にいるのがなんだかしんどくて、母がいない違和感からかと思っていたけれど、違っていました。
だって、自分がしたいことをずっと我慢して司法試験勉強し続けた歴史が長い‼
本当はもっと普通に人と交流して生きていきたたいのに、人との交流を絶って、これでいいのかな?と思い続けながらも、流れを変えられなかった日々。
自宅にいると、なんだかしんどくて、外に出たくなっていた私。
今、一人暮らしの部屋で、本当の意味でホッとできている。
でも、自宅には子どもの頃から、40年近く住んでいて、母がずっとお参りしていた仏壇が父の寝室にあり、今は父の遺影があるので、私は寝泊まりは自宅でしていた。
今でも、母とはごくたまに会うだけ。
先日会った時、仏壇は古物屋さんに引き取ってもらう、とは聞いていた。
この間、自宅に帰ったら、夜ということもあるけど、自宅の玄関前で、なんだか自宅が真っ暗な感じがした。
いつものように、「ただいま」と仏壇のある部屋に行くと、仏壇が閉じていて、父の遺影や中の物がすべて外に出されていた。
この時ばかりは、遺影の笑顔の父が泣いているように見えた。
長年、私も高校生くらいの時から母とお経をあげてきた仏壇。
父も20年くらい前から、朝と夕に般若心経をあげていた仏壇。
本来なら、最後は母と私で心をこめてお経をあげて、父の遺影を出していたはず。
私は心からそうしたかったし、父もそれを望んでいたはず。
母が私に電話1本してくれれば、それは可能だった。
でも、母は父が亡くなった時だって、自宅に帰りたいとハッキリ分かる父の願いを無視して、自分の都合を優先させたのだ。
仏壇のこともそう。
今も母が神様と信じている教祖を悪く言う私とは極力関わりたくない、という発想にすぐにいってしまうのだ。
私は私の奥底に母に対する静かな怒りがあるのを感じた。
私だったら、娘にこんなことできない。
私自身が教祖の支配下に長年いて、自分の流れを作れなかったから、今、私より高齢の母がそうできないことはよく分かる。
それに、私はなんだかんだ言って、本当に母を愛している。
最近、お参りしていると、素直に亡くなった母の父母である私の祖父母や、龍さんに母のこと守ってください、とお願いできるようになった。
でも、でも、この母に対する静かな怒りは感じていたい。
私の中で、母とのことで自分を被害者にすることなく、私自身が幸せになっていくために、均衡を図る大切な感情だ。
私は自分で言うのもなんだけど、根がお人好しで、今でも、母のいいとこ探しを無意識にしてしまう。
実際に過去、母の愛を感じたことも沢山ある。
だから、お母さんなんてどうでもいいや!とは逆立ちしてもなれない。
結局、こんなに辛いくらい愛している母がいるってことか、とさえ思う。
だから、こんな私だからこそ、母を俯瞰して見る視点は大切。
この静かな怒りを感じ続けている。
きっと私の自分軸を強くしてくれる。