人間の判断というのは
どちらがいいのか悪いのか
自分の主観の中で決めるということだと思う。
この物理空間もしくは情報空間において判断のない世界ってあるのかな?
そういった中では感情というものは生まれるのか。
動物の世界は??
そもそも判断があるのか。危険時と安全時で分けているような気がするけど。
なんか人間が勝手にこの猫は「怒ってる」「機嫌がいい」とか言っているけど
それは人間という主観の中で判断しているもので動物の主観ではない。
そもそも「怒る」っていうジャンルの感情があるかもわからないのに・・・・・・
さらにいうと動物たちにそもそも感情があるのか分からないのに・・・
人間は勝手な生き物だね。
思考ができるというのは素晴らしいことだが、苦しい面も当然あって、
本当に苦しむと、自決という判断をしてしまう。それは他者とのかかわりなどが原因であったりするが
結局自決に追い込むのは脳であり、感情であると思う。
自分の死の形を決める自由は侵してはならないと思うが、
それが不本意な死であれば、やはり思いなおしてほしい。
自分を支配しているのはたかが自分の感情(されど感情ではあるが)。
「思考を変えるだけで本当に世界は180°変えることができる。」
と、たしか上座部仏教を信仰している方がおっしゃっていたと思う。
もちろん簡単にできることじゃないが私もそう思う。
自殺大国、日本。先進国ではナンバーワンという不本意なナンバーワンはいらない。
とりあえず主に金融政策をしっかりし(財政政策も)、少なくとも景気を上げ、失業率を上げるところから始めるべきなのでは。
世界の根本を追求するのはおもしろそうである。
お金というのは人間が作りだした便利な道具であるが、経済学をいくら極めても世界の根本を理解することはできないのではないか。なんとなくの理由としては恐らくこれは人がいなければ存在しないものであるからだ。
一方物理という学問を考えてみる。
もしこの世に人間が存在しなかったとしても物理法則ははたらいているはずである。
恐らく星たちは万有引力の法則にもとずいて勝手に動いていたのではないか。
(万有引力という法則自体は人間がいなければ発見されないが。)
と考えると物理学というのは世界の根本を追求する学問だと感じる。
それでは哲学はどうなのか。人間がいなければ、そして人間が思考しなければこの学問は存在していないかもしれない。結局哲学というのは学問を生みだすツールなのでは。全ての事象を疑い、考えに考え抜いてある程度納得のいく答えを導き出していくということだと私は勝手に思っている。ということは世界の根本を追求するツールを生みだす学問なのでは・・。星の運動を疑い、リンゴが木から落ちるのを疑い、鳥が空を飛んでいるのを疑い、食べても食べても時間の経過によって空腹になるのを疑い、なぜ目の前のものを知覚できるのかを疑い、自分とは何なのかを疑い、この世とは何なのかを疑い、時間とは何かを疑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そういうプロセスのなかで物理学、化学、自然学、様々な学問を生みだしてきたのだろう。
そこで色々考えてみた結果、私は全ての事象にたいしてある程度納得のできる一つの答えにたどり着いたと馬鹿なりに思っているのだが、それは「神でない限り、森羅万象、あらゆるものは分からないということ」である。当たり前すぎるのだが。
なぜ人間は生きていくのか。
答え 分からない。
人はなぜ死ぬのか。
答え 分からない。
なぜ二つの物体は互いに影響しあうのか。
答え 分からない。
運動方程式は本当に正しいのか。
答え 分からない。
人間はある程度答えを出し、実験である程度核心をつく答えを出せることは出せるが、それが本当に正しいのかどうかは、その神にしかわからないと思っている。全知全能である神がいるのならばだが。
しかし全知全能の神はいない。全ての事象に偶発性が含まれていることが証明されたということで神でも支配されない領域があるということがわかったらしい。
少なくとも人間はその系によってその系が正しいことを証明できない。これが不完全性定理?っていうのか??勉強不足でよくわからないけれど数学で数学の正しさは証明できないとかそういうことらしい。
結局この世の中では少なくとも人間が疑いようのない絶対的真理をとらえることはできない。
もし絶対的真理だったとしてもそれが絶対的真理だと気付かないし、証明できないだろう。
こういった中で人間はいかに生きるべきか・・・
自分が考えたことが正しいのか分からない。
昨日の自分の行動が正しかったのかもわからない。
人の死というものを悲しむというのに本来意味があるのかもわからない。
「自分」という尺度の中では相対評価はできるが絶対評価はできない。
人間はどう生きるべきなのだろう。これこそ難題だ。
お金というのは人間が作りだした便利な道具であるが、経済学をいくら極めても世界の根本を理解することはできないのではないか。なんとなくの理由としては恐らくこれは人がいなければ存在しないものであるからだ。
一方物理という学問を考えてみる。
もしこの世に人間が存在しなかったとしても物理法則ははたらいているはずである。
恐らく星たちは万有引力の法則にもとずいて勝手に動いていたのではないか。
(万有引力という法則自体は人間がいなければ発見されないが。)
と考えると物理学というのは世界の根本を追求する学問だと感じる。
それでは哲学はどうなのか。人間がいなければ、そして人間が思考しなければこの学問は存在していないかもしれない。結局哲学というのは学問を生みだすツールなのでは。全ての事象を疑い、考えに考え抜いてある程度納得のいく答えを導き出していくということだと私は勝手に思っている。ということは世界の根本を追求するツールを生みだす学問なのでは・・。星の運動を疑い、リンゴが木から落ちるのを疑い、鳥が空を飛んでいるのを疑い、食べても食べても時間の経過によって空腹になるのを疑い、なぜ目の前のものを知覚できるのかを疑い、自分とは何なのかを疑い、この世とは何なのかを疑い、時間とは何かを疑い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そういうプロセスのなかで物理学、化学、自然学、様々な学問を生みだしてきたのだろう。
そこで色々考えてみた結果、私は全ての事象にたいしてある程度納得のできる一つの答えにたどり着いたと馬鹿なりに思っているのだが、それは「神でない限り、森羅万象、あらゆるものは分からないということ」である。当たり前すぎるのだが。
なぜ人間は生きていくのか。
答え 分からない。
人はなぜ死ぬのか。
答え 分からない。
なぜ二つの物体は互いに影響しあうのか。
答え 分からない。
運動方程式は本当に正しいのか。
答え 分からない。
人間はある程度答えを出し、実験である程度核心をつく答えを出せることは出せるが、それが本当に正しいのかどうかは、その神にしかわからないと思っている。全知全能である神がいるのならばだが。
しかし全知全能の神はいない。全ての事象に偶発性が含まれていることが証明されたということで神でも支配されない領域があるということがわかったらしい。
少なくとも人間はその系によってその系が正しいことを証明できない。これが不完全性定理?っていうのか??勉強不足でよくわからないけれど数学で数学の正しさは証明できないとかそういうことらしい。
結局この世の中では少なくとも人間が疑いようのない絶対的真理をとらえることはできない。
もし絶対的真理だったとしてもそれが絶対的真理だと気付かないし、証明できないだろう。
こういった中で人間はいかに生きるべきか・・・
自分が考えたことが正しいのか分からない。
昨日の自分の行動が正しかったのかもわからない。
人の死というものを悲しむというのに本来意味があるのかもわからない。
「自分」という尺度の中では相対評価はできるが絶対評価はできない。
人間はどう生きるべきなのだろう。これこそ難題だ。
缶コーヒーっていろいろ種類がある。
MAXコーヒーみたいに超甘いのから、無糖のブラックコーヒーまで。
ここまで出てると企業も砂糖の量、ミルクの量による競争企業との差別化が難しくなる。
つまり種類が多いと似ている商品が多くなってしまう。
ってことは結局価格による競争が促進してしまって値下げが激しくなったりしないのかな?
この考え方がまちがっているかあっているかは別として、あらゆることに対して人間というのは分析するのが好きな動物だな。
MAXコーヒーみたいに超甘いのから、無糖のブラックコーヒーまで。
ここまで出てると企業も砂糖の量、ミルクの量による競争企業との差別化が難しくなる。
つまり種類が多いと似ている商品が多くなってしまう。
ってことは結局価格による競争が促進してしまって値下げが激しくなったりしないのかな?
この考え方がまちがっているかあっているかは別として、あらゆることに対して人間というのは分析するのが好きな動物だな。