「いのち」について その2 | なちのブログ

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生命現象の精巧さに魅せられ研究の世界へと飛び込んだ大学院生が、日々の出来事や感じたことを綴ります。基本「フリースタイル」で。

先日の続きですが、本題の「いのち」について書くまで、


内容は余談だったり脱線したりしますが、タイトルはこのままで行きたいと思います。(いずれ変えます)


実はこのなんとなく書いてる「余談」に重要な意味もあったりするので、


自由に書かさせてもらいます。






それにしても、日本の学習指導要領って不思議ですよね。


飛び級もないし。なぜか決まった年数子どもたちを学校において教育を受けさせる。



文科省の方がおっしゃってる事自体はよくわかりますよ・・・?


理にもかなってる(ように思える)し。





・・・果たしてそれが正しいのか。




政教分離なんで、あまり宗教的な観方で政策について述べるのは憲法における理想ではないかもしれませんが。


まぁ、宗教というか哲学的懐疑なんですけどね。





明治政府は「神仏分離」からの「廃仏毀釈」という過激な政策を行っていますが、


本当のところ、何をそこまで恐れていたんですかね?


(300年続いた江戸幕府繁栄の陰には密教僧が深く関わっていたといいますが)



かつての朝廷は、空海が中国から密教を持ち帰った際に、


「自らの生き方を問い、人としてどのように生きるかを自ら考えて見出すための手段としてこのようなすばらしい教えがあるのか」


と、仏の教えを国に広めるために力を尽くしたりもしていました。




密教でもそうですが、仏と神は本来同一です。(「神仏分離」に対して、「神仏習合」といいます)


「仏教」は人としての生き方を説く(というより問う)教えです。



それを廃絶して、政府は「どう生きることが正しい」と教育したかったんでしょうか。


仏を廃し神を残し、日本を神の国として、


生きている間は「神」の世界で、亡くなってからは「仏」の世界という


本来の仏教とは違う認識を国民(行事的)に定着させてしまっています。



本来は違います。


人としての生き方を問うと言いましたが、


「いのち」あるこの身このまま仏として生きる「即身成仏」(そくしんじょうぶつ)が基本的な考えです。




果たして、その教育方法や政府が推し進めたい思想の結果、人々の心はどういう向きにいってるんですかね。


日本の教育制度の下で「エリート」なんて呼ばれ方をしている人は、果たして何のエリートなんですか?


エリート=政府が理想とする人材ってこと?果たしてその「理想」とは・・・?



そして、日本人を知らず知らずの内に「無宗教」にさせたがっていたのは政府だったとしたら・・・


それが思惑通りにいっているのだとしたら・・・それは何を意味するのか。



無宗教にさせることで国民全体にある種の思想を植えつけさせやすくさせたり・・・?


仮にそうだとしたら、


その状況で1人1人が自分自身の考えの下に「生きることの意味」を見出せているのか?





せっかくなんでものすごく遠回りに例を挙げると・・・


おそらく中学3年生までには「模範的生徒」と言われるとパッと頭にイメージが浮かびますよね?


性格なり行動なり・・・


多分、ヤンキーであろうが俺みたいな頓珍漢であろうが、


義務教育を受けた人であればそれほど差異なく「模範的生徒」像をイメージできるはずです。


そういう「共通認識」を持てちゃいますよね?


そういう風に「こういう人物がすばらしい」と共通認識を持たせることが・・・・の狙いであり、


もし、その模範的生徒の人物像のような人材を育てたいのであれば、それは一体・・・・・・・・・・




まぁ・・・そんなことあるはずがないと思うので、気にしないでください。


ということで、「もしも」の話でした。





これと関連して、「無宗教」という事ついてちょっとだけ言わせてもらうと・・・


無宗教と言っても色々な見方があると思いますが、


例えば・・・


神や仏がいないと「信じて」いるとか、


この世は全て原子からなる物質の作用によって成り立っていると「信じて」いるとか・・・ですかね?


果たして、「無宗教=宗教ではない」 なんでしょうか?



心の働きがある以上、何かしら客観的証明の不可能な「信心」はあると思うのですが、


無宗教という(特定の組織や名前はないけど)宗教なんじゃないかという気もしますけど。





でも、数年前の学会(何のだっけ?)で「意識」(あまり好きではありませんがテレビ的に言うと「霊」)の質量が科学的に証明されたり、


量子論では、すでに唯物論(この世の現象は全て物質で説明される)で物理現象を説明できない時代になってしまっているので、


そう信じることは、それこそ得体の知れない「信心」かもしれません。



かと言って、特定の宗教に入ることをすすめているわけではないんですけどね。


そうする必要も特にないです。


単なる、ものの観方です。



それに、くどいようですが・・・


政教分離そのものが良い悪いじゃなくて、「なぜそうしたのか」の「なぜ」(論理)に問題がある(かも)ってことです。