最近、少しでも体調が悪くなると、「念のため」休みを取ります。今日は初めて、子どもが急に発熱したので、休みを申請しました。家から離れたところに住んでいる、一人暮らしの親から、ヘルプを求める的なラインメッセージを受け取った翌日にも、ちゅうちょなく休みを取得しています。しかし私が働き始めた平成ヒトケタ時代には、このような休みは取れなかったことを思い出します。
これから私が書くことに関し、多くの違和感や反感を抱かれる方も一定量おられることを踏まえて、あえて記録しておきますが、平成ヒトケタ時代、すなわち1990年代前半に入社した世代は、体調不良に関して、寝床から起き上がれなくなった時が、会社に出られない時でした。そんな時には、上司に独身寮まで来ていただき、コンビニで購入した飲み物などを貰ったことが懐かしいです。
平成ヒトケタ時代の職場では、机上に灰皿が置かれていました。分煙などまだ先の話で、隣でタバコに火をつける人がいる環境でした。多少の発熱があっても出勤して、顔を真っ赤にしながら怠そうに働く人もいました。おそらく朝までお酒を飲んでいて、顔を真っ赤にした酒臭い人が、ミーティングに参加していて寝ていたことも思い出します。
残業はほぼ制限なく行い、私のような技術職は、定時が終わった時からが、クリエイティブな活動ができる時間でした。といっても残業仲間と仕事以外の話を延々と続けることも多々ありましたが。夜の残業が終わると、上司と飲み屋に行くことも多々あり、行きつけのラーメン屋で仕事の話をするのが常でした。私が属していたグループでは、殆ど上司の悪口などは言っていなかった記憶があり、技術に関する前向きな話が多かったです。思えば、その時の上司の年代に、私は突入してしまいました。
平成ヒトケタ時代の休日は、上司からの電話で始まることもありました。独身時代の私は、仕事一辺倒の生活と、たまに行く地方都市での買い物というパターン化された生活で、休日に会議資料を作成する上司からしたら、良い人材だったのかもしれません。当時はタイムカードやタイムスタンプ的な出勤記録はなく、それこそ紙に出勤記録を書いていたので、休日も気分次第で出社していたと思います。
私はいわゆる一部上場企業で働き続けていますが、30年前はどの企業も同じ状況だったと推定します。私が入社した時はバブル崩壊直後だったので、戦後の高度経済成長や、日本の躍進の勢いを保ったまま、突き進んでいた時代だったと思います。冒頭のように、多少の風邪や発熱、二日酔いでも出勤して、夜遅くまで残業して、休日もよく出勤していました。
2000年代に入って2回のリセッション時期があり、この時、労務費削減を目的とした残業規制が行われました。ITバブル崩壊直後の2000年代初頭、リーマンショックが起こった2009年だったと思います。残業時間を代休で相殺する方法で残業代をカットする施策が行われ、この時に使えなかった有給休暇が、一定日数貯蔵されることとなりました。これが2回実施されたため、相当な有給休暇が貯蔵されていました。しかしながら私は、有給休暇も毎年消化せずに消滅させていたので、貯蔵された休暇に手をつけずに働いていました。それが急に、消化すべしというお達しがあり、計画的な特別休暇の消化を3年前から実施してきました。
振り返ると、連続休暇を取るタイミングは盆や正月、5月の連休が常でしたが、それ以外に、個人の理由により連続休暇を取ったのは、新婚旅行の時と親戚が亡くなった時、プライベートで大怪我して入院した時、心身ともにやられてしまった時でした。いずれも、私的な旅行に行ったり、個人の趣味に合わせて休みを取得したことはありませんでした。同僚の中で、日韓開催のワールドカップを見るために、1週間韓国旅行をした人がいましたが、結構な反発があったことを記憶しています。
休みの取り方や満喫の仕方がわからないまま、私は計画的、時には衝動的に休みを「消化」します。これがいわゆる「働き方改革」なのでしょうか。コロナ禍以降は、少しでも体調不良の懸念があると、感染防止の理由から、休みを取ります。この辺の感覚が最初は馴染むことができず、有給休暇消化が3年目に入ってようやく、余暇で何をすべきかという方向性が、定まったきたと思います。こんなぬるい話をしていると、気分を害する方がおられると思いますが、社会の変化を記録する意味で、私の経験を語った次第です。
企業はかつて、週休1日制や、「半ドン」なる半端な休日出勤をしたのちに、週休2日制に移行して、月曜日に祝日を設けるなどの、政府による余暇の創出をしてきましたが、そのうち週休3日が当たり前の世の中になり、人々は「労働」を殆ど行う必要がなくなるのでしょうね。「余暇」を有意義にすることは人々の必須科目となり、この時代に取り残されないようにしたいと思っております。