日立航空機立川工場変電所は、昭和13年(1938)から平成5年(1993)まで使用されていた変電所跡。 昭和20年2月17日にF6Fヘルキャット戦闘機、4月19日にP-51ムスタング戦闘機らによる機銃掃射を受けた銃痕が残る。広島の原爆ドーム同様に太平洋戦争本土無差別空襲の爪跡が強烈に残る数少ない戦争遺構だ。
周囲を廻ってみると後ろ側は銃痕があまりなかった。正面の一方向(南側)のみに猛烈に機銃掃射を受けたのがよくわかる。
【軍需工場の変電所】
昭和13(1938)年、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に軍用機のエンジンを製造する大きな軍需工場が建設された。
東京瓦斯電気工業株式会社(翌年、合併により「日立航空機株式会社」となる)立川工場。工場は拡張を続けながら操業し、昭和19(1944)年には、従業員数13,000人を数えるほどの規模となる。
工場の北西部にある変電所は、高圧電線で送られてきた電気の電圧を下げて工場内へと送る重要な施設だった。
変圧器には銃痕があった。
【工場への空襲】
太平洋戦争末期になると、軍需工場が集中していた多摩地域は、数多くの空襲を受けることとる。この工場でも昭和20(1945)年の2月17日、4月19日、4月24日に受けた3回の攻撃で、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える方が亡くなった。4月24日の空襲では、工場は8割方壊滅したといわれている。
変電所も窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができた。しかし鉄筋コンクリート製の建物本体は、致命的な損傷をうけなかった。
階段にも銃痕があった。
【戦後】
戦争が終わると、平和産業に転換し、設備機器の更新をしながら、工爆撃の傷跡や内部の一部にも痕跡を残したままの状態で平成5(1993)年まで操業を続けられた。
焼夷弾
B29の模型
F6Fヘルキャット戦闘機、P-51ムスタング戦闘機の模型
【感想】
多数の弾痕が残る外壁は、当時の攻撃の凄まじさを今に伝えていた。
戦争の怖さや悲惨さはもちろん、平和の尊さや今の日本が平和であることの有り難み、みたいなをしみじみ感じた。
※東京大空襲
太平洋戦争中,米軍の東京への空襲。爆撃は1942年4月に始まったが,1944年末からは休みなく来襲。1945年3月10日未明,襲来したB29の大編隊は無差別攻撃によって大量に爆弾・焼夷弾を投下,発生した火災は半時間足らずで下町地区全域に及び,焼失家屋26万戸,死者約10万人の被害を生じた。4月13〜14日には東京西部地域,5月24日には山の手地域,この3次にわたる大空襲によって東京の半分が焼け野原となり,300万人以上が罹災した。