淳一レフェリーはIWAの社員。
月給は17万円の取っ払い。
(保険や年金などは自分で支払い)
2001年に結婚して、IWAの仕事以外に浅野社長が経営する『お食事処 花膳』のランチタイムを手伝うも給料アップは据え置き。
『給料上げてください!!』
と交渉するも浅野社長の友人の居酒屋でバイトを勧められる始末。
この辺りの経緯は↓より読んでください。
お盆休み前と正月休み前に浅野社長から
『餅代・氷代』
の話をされますが支払われた試しはありません。
社長も餅代(氷代)の話をするから淳一も期待してしまいます。
しかし、2002年の餅代の件はいつもと違い
『今回は貰える!!』
そんな予感がしていました。
浅野社長「ディファカップが終わったら淳一とOにお小遣いあげなきゃしょうがないでしょ~」
5団体共催ディファカップの共催団体だったIWAには2日間のチケットとテレビ放映のお金が桁が一桁違うくらい入ってくるのは事前に浅野社長が話をしていましたので理解していました。
Oさんも今回ばかりは
『浅野社長は支払うはず』
と踏んでいましたが、時が経てば忘れてしまうんではないかと不安もありました。
淳一とOさんは事前に作戦を立てることにします。
IWAでは当時、ファイトマネーは試合後に取っ払いでした。
淳一が事前に出場した選手、スタッフのギャラを入れる封筒を用意して浅野社長と一緒に封筒に詰めていました。
この大会にIWA関係で出場した選手は、
ザ・グレート・タケル選手
河童小僧選手
YUJI KITO選手(セコンド)
3選手の封筒の下にこっそり、佐藤淳一とOさんの名前の書いた封筒を忍ばせておきました。
浅野社長「淳一!封筒持って来て!!」
といつものように言われて、淳一はニコニコ顔で浅野社長の前に封筒を差し出します。
上から順番に封筒にお札を入れていく浅野社長。
KITO選手を入れ終わり、『佐藤淳一』と書かれた封筒を見て一言。
浅野社長「何これ?あんた達は社員(月給制)だからあるわけないだろ(笑)」
と言って淳一とOさんの名前の書かれた封筒を丸めてゴミ箱へ。
まわりにいたユニバーサルミュージックスタッフやIWAリングスタッフの方は笑っていましたが、Oさんと淳一レフェリーの顔は笑っていなかったです。
ムッとした淳一の表情を浅野社長は見てみぬフリ。
『浅野のヤロー!!期待させやがって!!』
『結局、支払いは無しか!!』
『こんな会社辞めてやる!!』
↑淳一レフェリー心の声。
後日、営業部長のOさんに会社を退職する旨を伝えます。
Oさんも給料の問題ならどうすることも出来ずに渋々理解していただきました。
翌日、いつものように『お食事処 花膳』でランチタイムの仕込みをしている浅野社長に
『退職願い』を提出。
花膳のパートのおばさんもいる手前、辞めることには深くは触れずに、
浅野社長「1ヶ月、ちゃんと引き継ぎをしてからにしなさいよ。菊池(リングアナ)みたいじゃダメだからね!!」
と念を押され了承されました。
IWA・JAPANプロレス退職日は2003年3月31日。