新宿二丁目にある、お食事処『花膳』の
ランチタイムが一段落してからですので
14時過ぎだと記憶しています。
団体広報の菊地リングアナが退職したことになり急遽広報に抜擢された淳一レフェリー。
右も左も分からない淳一のために、
『広報はこうやるんだ!!』
とばかり浅野社長は張り切ります。
ある日の昼下がり、日本タレント名鑑を小脇に抱え事務所に現れた浅野社長。
ページをパラパラとめくり、何も言わずに電話をかけます。
浅野社長「もしもし。
こちら東京のIWA・JAPANプロレスの浅野と申します。
この度、5月20日に仙台で試合が決まりまして~。
つきましてはラジオに出演できませんか?」
こんな感じで話を進めます。
『東京』に強い憧れがあったのでしょうか?
事あるごとに『東京』を強調していました。
「僕も宮城県の岩沼市出身なんですよ。」
「CDも出していまして東京で人気なんですよ。」
段々と饒舌になり、次々とラジオや新聞のアポイントメントを取っていきます。
浅野社長「淳一、仕事はこうやってやるんだよ?わかった?」
と得意気な顔をして事務所を後にします。
後日、淳一レフェリーは営業Oさんと宣伝カーで仙台入り、ポスター張りや優待券配りを馴れた作業ですので難なくこなします。
夜は暇でしたので、Oさんと繁華街をブラブラ。
『テレフォンクラブ』を見つけ2人で入店。
相手が決まっても恨みっこなしでと念を押して、いざ店内へ。
トイレくらいの広さの狭い個室に隣どうしで入室。
部屋にはイスとテレビ、テーブルの上に電話とメモ帳とボールペンが無造作に置かれています。
早取り方式では無く、順番に電話を回してくれるみたいなので気楽に待ちます。
自分の電話がなり、緊張しながら受話器を取ります。
淳一「もしもし。こんにちはー。何してるの?」
会話を続けていると隣の部屋からゲラゲラ
と笑い声が、聞こえてきます。
薄いベニア板1枚で区切られた部屋でしたので隣の会話が丸聞こえでした。
笑いの主はOさん。
こうなってくるとシラケちゃって、
Oさんは、お相撲さんの声真似をしたり、
おふざけモード。
かかってくる電話を茶化して隣にいる淳一レフェリーを笑わせてきます。
若い頃の楽しい思い出です。
翌日、浅野社長が新幹線で仙台入り。
浅野社長がアポイントメントをとった
仙台市内の新聞、ラジオ局まわり。

ラジオ収録の1枚です。
淳一レフェリー若い!!
今よりもイケメンですよね(笑)
試合はセミファイナルまで裁きましたが
メインイベントはカブキさんが裁きます。
同期の鈴木リングアナは初のメインイベント。
淳一レフェリーより先にメインイベントを経験します。
また、この日は初の後輩レフェリー、パンチョ軽部レフェリーがデビューします。
パンチョレフェリーは、会場に着いて衣装が用意されていて有無も言わさず無理矢理レフェリーとしてデビュー。
リングが組上がると平野勝美選手から熱心なレフェリング指導を施されます。
また、『パンチョ軽部』というリングネームは、鈴木リングアナのコールによりリング上で本人に知らされました。
淳一レフェリーのデビューと同じく、会場隅っこでは、関係者、リングスタッフは大爆笑。
本人は大真面目だから尚更、可笑しかったです。
淳一レフェリーは、第2か第3試合でウルトラ・セブン選手にカウントが遅いと注意を受けます。
自分のカウントが遅かったせいか?わかりませんが時間切れ引き分けに。
腹いせに淳一レフェリーを軽々と持ち上げボディースラム!!
初体験のボディースラムで息が詰まりました。