2000年12月3日IWA・JAPANプロレスディファ有明 | 佐藤淳一レフェリーブログ “きれいな水で泳ぐも人生。 汚れた水で泳ぐも人生。”

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2017年11月23日にプロレスレフェリーを引退しました。
現役時代は、沢山の方に支えられ、そして応援していただきありがとうございました。

2000年7月に格闘技・プロレス会場として新たな聖地となるディファ有明がオープンします。

IWAとしては12月末に後楽園大会が決定していましたが強引に12月3日にディファ有明大会が決定したと記憶しています。

淳一レフェリーは営業のOさんと大会ポスターと前売り券委託のお願いにディファ有明を訪れます。

すると、ディファ有明の担当者として対応していただいたのは、驚いたことにFMW高橋英樹営業部長でした。
(現、超戦闘プロレスFMW社長)

高橋部長はFMWを退社し、ディファ有明に勤務していました。

リッキー・フジ公認ファンクラブを作るきっかけとなった高橋部長と淳一少年の出会いは下記のリンクからアクセスください。

1995年12月21日FMW横浜文化体育館  その1

1995年12月21日FMW横浜文化体育館  その2

1995年12月21日FMW横浜文化体育館  その3

1995年12月21日FMW横浜文化体育館  その4

スーパー・レザー選手に壊されたカメラを修理

淳一少年が中学3年生の時にファンの立場でお会いした高橋部長と今度は関係者としてご挨拶します。

高橋部長は、淳一レフェリーが挨拶をする前に気がつき、

高橋部長「リッキー・フジファンクラブ会長の佐藤淳一くん!!」

淳一レフェリー「ご無沙汰しています。
IWAでレフェリーデビューしました。
よろしくお願いします。」

高橋部長「そう、よろしく。」

と笑顔で対応していただきました。


また、昨日にはFMW新宿フェイス大会にお邪魔しました。
高橋部長(現、高橋社長)に引退する旨を伝えました。
高橋部長は、佐藤淳一プロレス人生のなかで無くてはならない存在です。

話を戻します。

試合当日、この日のメインは、
敗戦軍マネージャー髪切りマッチとして行われます。

宇和野貴史
山下義也
松田慶三
with浅野社長

vs

ブギーマン
YUJI  KITO
ターザン後藤
withバッファロー太野

敗戦軍マネージャーのバッファロー太野氏と浅野社長どちらかが試合後に坊主になります。

助っ人外国人選手がいないIWA軍にとっては不利な戦況が続きます。

しかし、試合終盤にバッファロー太野のパウダーがブギーマン選手に誤爆。

隙をついて宇和野選手がきれいな弧を描いたドラゴン・スープレックスホールドによりIWA軍が勝利します。

IWAに参戦していた三田英津子選手がよく口にしていた、

三田選手「金六さん、(浅野社長の本名)ピンクパンツは素質あるよ。」

※ピンクパンツ=宇和野貴史選手

この年、北海道2度の凱旋興行をして一皮剥けた若手・宇和野選手の成長は2001年に向けてIWAにとっては明るい未来でした。



一方、敗戦軍マネージャー、バッファロー太野は往生際が悪く、髪切りを拒みます。

ようやく確保され椅子に座りバリカンを入れようとした瞬間



浅野社長が自らバリカンで坊主になります。

浅野社長「俺が1階で花膳、お前が2階で猛牛クラブを経営していて、ご近所なんだからケンカなんかしている場合じゃないだろ!!俺が坊主になってあげるよ!!」

と言い男粋をみせますが、浅野社長は極端に坊主に近いスポーツ刈り。

あまり違和感がありませんでした(笑)



淳一レフェリーも浅野社長とバッファロー太野さんに板挟み状態でしたので仲直りしていただきホッとしました。



そういえば、この日ロマンポルシェさんがプロレスのリングに初めて登場しました。
しかし、あまり盛り上がらず…。

時代が10年早かった気がします。