1999年9月26日IWA・JAPANプロレス後楽園ホール | 佐藤淳一レフェリーブログ “きれいな水で泳ぐも人生。 汚れた水で泳ぐも人生。”

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2017年11月23日にプロレスレフェリーを引退しました。
現役時代は、沢山の方に支えられ、そして応援していただきありがとうございました。

1999年9月26日IWA・JAPANプロレス後楽園ホール大会のリングスタッフとして参加します。

7月、8月、9月とIWAは連続で後楽園ホール大会を開催。
10月には、有明でIWA史上2度目の電流爆破デスマッチが控えています。
(1度目は伝説の川崎球場大会。)

『社運をかけすぎる団体』

が動きました。

この日のメイン、後藤軍とIWA正規軍が激突!!

ノーロープ有刺鉄線2大ボードデスマッチ
お互いのチームが公認凶器となるデンジャラスボードを持ち込む試合形式。

後藤軍は、ボードの上に山盛りの薔薇。

淳一少年は、この薔薇ボードの設置、運搬に携わったのですが、薔薇のトゲが意外に痛く刺さり視覚や聴覚には伝わらないが痛みは半端ないアイテムでした。

一方、IWA軍のボードは、割れた茶碗、
お皿や湯呑み等。

浅野社長は、公認凶器を準備するお金がなく、自身の経営する定食屋『花膳』で使用出来なくなった食器の数々。

こちらも痛みが伝わり難いが、実際はメチャクチャ痛い代物。

試合は、ターザン後藤選手が薔薇ボード上へのフェイスバスターで山下選手に勝利。

大日本プロレスから移籍のジェイソン・ザ・テリブル選手を後藤選手らが痛めつけているところへレザー・フェイス選手が救出。手薄なIWA勢に強力な助っ人が加入しました。


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試合の流れはこれくらいにして、
この日一人のレスラーが引退したのでそちらの回顧録をお届けします。

元川恵美選手が3月に退団。フリーを経て
FMWに移籍します。

当時、IWAにはもう一人女子選手が活躍していました。

西堀幸恵選手。

※この名前でピンときた方は、インディーマニアまたは女子プロレスマニアです。

1997年3月10日千葉・館山市民センター
vs元川恵美戦でデビュー。
(Wikipediaでは、1995年デビューと間違って表記されていますので、訂正できる方はお願いします。)
YUJI  KITO選手も同日同会場vs佐藤孝至戦でデビュー。

元川選手と2人で大量離脱後の全日本女子プロレスのリングに参戦し小柄ながらも奮闘していました。

元川選手とタッグを組む際の入場曲は
ウルフルズの『ガッツだぜ!!』

西堀選手の入場曲は、
南青山少女歌劇団『夢を信じて』
(この曲が西堀選手のイメージにマッチしていて良いんですよね~。)

西堀選手とは淳一少年の2つ上で歳も近く、非常に仲良くさせていただきました。
また、横浜市在住で関東近県の会場に行く際には、営業のOさんの運転する宣伝カーに西堀選手、淳一少年、
リングスタッフEさん等と行動を共にしていました。

誰に対しても敬語を使い、もちろん、
淳一少年(年下のリングスタッフ)と話をするときも、いつも敬語。

口癖は「お疲れ様です!!」

口を開くと「お疲れ様です!!」

ある日、パーキングエリアでトイレ休憩。
トイレから出てきたOさんへの第一声も

西堀選手「お疲れ様です!!」

Oさん「確かに疲れたけどね。」

一同、大爆笑!!!!!!

本当に真面目な性格でした。

152㎝52㎏の小さな身体で全日本女子プロレスの大型選手を相手に多数の試合をこなし、日本全国を行脚。
連戦に続く連戦に特に腰は相当悪く、
見ているほうも気の毒になるくらい…。

それでも「腰が痛いから~」と弱音を吐かずリング作りに励んでいました。


ある日の西堀選手と淳一少年の会話です。
「全日本女子プロレスの巡業は、移動時間が長く、退屈しのぎにウォークマンで音楽を聞いています。」

そんな会話をしてからは、淳一少年の持っているCDをカセットテープに落として渡していました。
カセットテープの時代の話です。

JUDY AND MARYが中でも気に入ったらしく、

「元気が出る曲ばかりで~」

と感謝されました。

1999年9月26日後楽園ホール。
引退セレモニーでリングに立った西堀選手は現役期間が短く少し残念でしたが、
淳一少年の心に残る素敵なプロレスラーです。


1999年9月26日後楽園ホール。
撤収後に撮った1枚です。



引退試合後にいただいたサイン色紙。

宛名が『イチローくんへ』ではなく
『さとうくんへ』

真面目な西堀幸恵選手らしいサイン色紙です(笑)