1997年5月27日IWA・JAPANプロレス芳賀町体育館 | 佐藤淳一レフェリーブログ “きれいな水で泳ぐも人生。 汚れた水で泳ぐも人生。”

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2017年11月23日にプロレスレフェリーを引退しました。
現役時代は、沢山の方に支えられ、そして応援していただきありがとうございました。

~はじめに~

芳賀町体育館には、淳一少年は手伝いに行っていません。


5月25日IWA八王子・マルチパーパスプラザ大会でのこと。

いつものようにIWAのリングスタッフとして参加します。
もちろんノーギャラでしたが、アットホームな団体の雰囲気が心地よく積極的に参加していました。

パンチ軍団では、選手との会話はほぼ不可能でしたので、選手と会話できるIWAは魅力的でもあり、自然と愛着が沸いてきました。

例えば、リング設営時、トラックから鉄骨を運び出す作業。
順番待ちをしている際に、松田選手や山田選手とバカ話をしたり、月岡選手が皆を笑わせようと面白い行動をとったりと楽しい思い出ばかりです。
(後に月岡選手は人気のマスクマンになりますがこの頃から笑いのセンスはあったと思います。)


休憩時間に岸さんから

「明後日の芳賀町体育館大会の会場探したの僕なんだよね~。」

と話をされます。

マルチパーパスプラザ大会の2日後、
5月27日栃木県・芳賀町体育館大会。

消防署へ届けに行った話や会場使用料金が安いなど得意気に話をされていました。

そして、会場はプロレス初使用のこけら落とし。(後に全日本女子プロレスが使用します。)

岸さんは普段は会社員で休みの日を利用してパンチ軍団やIWAのリングスタッフを手伝っていました。
仕事の関係で栃木県芳賀町の近くに住んでいて体育館に問い合わせをしてIWAに売り込んで決定した大会だと記憶しています。

岸さんの仕事ぶり(リングスタッフ)を信頼していたからこそIWAは大会開催にGOを出したものと思われます。

宣伝カーを運転したこと、ポスター貼りやスーパーなどに優待券を配ったことを話す岸さんはキラキラしており、そんな姿に淳一少年は憧れを抱いていました。

岸さんの車は軽自動車アルト。
お世辞にも綺麗な車とは言えないレベルの車。
な・の・に!!土足禁止。
トランクには布団が積んであり、土日などは家に帰らず車中泊で次のプロレス会場へ。

『岸さんは関係者みたいで羨ましいなぁ』

この頃、裏方の仕事に興味を持ち始めたころでした。

大会は田舎町のため満員にはならなかったみたいですが、感触は悪くなく2度目の開催もしたと記憶しています。



確かブラックハーツが参戦していたような?