ザ・グレート・カブキ選手&大黒坊弁慶選手加入。
冬木弘道選手が試合後に乱入。
様々な動きがあった1997年1月24日
新生IWA・JAPANプロレス後楽園大会。
淳一少年は、この大会以外は可能な限り、
レフェリーデビューするまでIWAにリングスタッフとして参加します。
(東北シリーズ、中京シリーズや北陸シリーズは流石に遠くて参加できませんでしたが…。)
97年2月8日IWAパシフィコ横浜大会にリングスタッフとしてアルバイトをします。
生意気なことは承知で書きますが、
山田圭介新社長をはじめIWAの若手選手のことは、全くと言っていいほど無知でした。
大好きなFMWと比べると選手層、マスコミの扱い、興行数、スタッフ数やグッズの充実さ全てにおいてFMWより劣っていると感じていましたし、
実際、僕らのアルバイト代は現物のチケット支給。
(岸さんだけはもぎりや整理といった仕事がありましたので僕らと別に給料が支払われていました。)
IWA < FMW
IWAに対してはどこか常に下に見ていました。
FMWが毎年開催していた川崎球場大会。
IWAは95年にデスマッチトーナメントと時のNWA世界ヘビー級王者を招聘しての開催。翌年96年の開催を発表するも数々の問題で中止になります。
『所詮、IWAは二番煎じ。』
開催が中止になって喜んでいました。
(当時のIWAに関わる関係者並びにファンの皆様、生意気を言って申し訳ございません。)
後年、IWAを熱心に手伝うようになって、
上記のような(川崎球場大会中止の件)内容を良くしていただいたIWAスタッフの方に軽々しく話をしてしまい、酷くガッカリさせてしまいました。
※高校生のころは相手の気持ちも考えず、
本当に酷い人間でした。深く反省しております。
じゃあ、なぜ淳一はギャラの出ない
IWAを手伝うようになったか?

初めて好きになったプロレスラー
石川孝志選手が参戦していたことが大きな理由でした。
IWAでは、パンチ軍団仕切りではなく、
リングスタッフ時代の師匠、岸さん仕切りでしたので口うるさく言う人がいませんでした。
リングスタッフアルバイトは皆プロレスファン。
調子に乗って関係者気取りで会場入りするカブキ選手や冬木選手を見つけると
「お疲れ様です!!」
と言ってわざわざ挨拶していました。
石川選手にも同様に挨拶に行き、
勝手に自己満足。
本当に痛いイタイファンでした。
プロレス業界用語でいうところの
「顔じゃない」です。
この日のパシフィコ横浜大会では、
山田圭介新社長は、再旗揚げ戦の後楽園大会ガラスデスマッチの後遺症により欠場。

試合前に松葉杖姿でリング上から挨拶。
この大会で淳一少年は一人の男性と仲良くなります。
岸さんと同じ年のEさん。
Eさんは横浜市に住んでおり、
徐々にIWAリングスタッフアルバイトが減っていく中でも常に会場に来る人でした。
Eさんがいたから、淳一少年もIWAのアルバイトを続けられたと言っても過言ではありません。
(EさんがいなければIWAでレフェリーデビューも出来ていません。)
また、3月10日館山市民センター大会で
プロデビューを控える
西堀幸恵練習生と木藤裕次練習生も僕ら
アルバイトに混じってリング・会場設営を行っていました。

木藤選手の公表は、174㎝85㎏
メジャー団体の選手に比べると数字的には小さく見えがちですが、トレーナーの上からでも分かる鍛えた85㎏でした。
プロレスラーに憧れていた淳一少年は、
この頃体重60㎏(高校1年生)
完全にプロレスラーの夢は諦めていました。