加えて後にレフェリーデビューする団体、
IWA・JAPANプロレスのリングスタッフについて書き進めていきます。
団体名が長いため、当ブログでは
IWA・JAPANプロレス=IWAと表記していきます。
新しいファンの方はご存知ないと思いますので簡単ではございますが、自分ががリングスタッフとして初参加する96年10月までのIWAの団体説明をします。
1994年5月に旗揚げしたインディー団体。
デスマッチで人気を博したW★INGの残党を中心として産声を上げました。
社長は、庄司信一氏。

94年2月にプエルト・リコで、
ビクター・キニョネス氏(写真中央)が
『インターナショナル・レスリング・アソシエーション』(略称IWA)を設立。
その日本支部としてIWA・JAPANプロレスがスタートしました。

旗揚げシリーズには、
“狂犬”ディック・マードック選手が参戦。

荒谷信孝選手を若きエースに。

“元祖”血みどろブラザーズ
中牧昭二選手(上)&小野浩志選手(下)。

W★INGからの残党、金村ゆきひろ選手。

初代IWA世界ヘビー級王者は、
“右利きのテリー”
ディック・スレーター選手。
ビクター・キニョネス氏のブッキングにより、世界各国からトップレスラーが来日。

“テキサス・ブロンコ”
テリー・ファンク選手。

カクタス・ジャック選手。
(ミック・フォーリー選手)

“インドの狂虎”
タイガー・ジェット・シン選手。

“人間魚雷”
テリー・ゴディ選手。

時の『NWA世界ヘビー級王者』の
アルティメット王、ダン・スバーン選手らを招聘して95年8月20日に川崎球場大会を開催。
(写真中央右、TAJIRI選手もIWAデビューです。)

一躍、インディーのトップ団体に踊りでますが、主力選手の離脱、ビクター・キニョネス氏がFMWに移籍。

画鋲デスマッチはIWAが初です。

ビクター・キニョネス氏に代わり、
WWF(現WWE)極東担当の実績がある
佐藤昭夫氏が専務取締役として入閣すると米ECWと提携し後楽園ホール、横浜文化体育館大会と超満員に。

その後、佐藤氏が退社。
真FMWターザン後藤選手らの離脱により、
96年10月シリーズを最後に活動休止の危機に陥ります。
リングスタッフの師匠、岸さんからの電話がきっかけでIWAのリングスタッフに参加します。
岸さん「佐藤くん、今度、南千住でIWAのリングスタッフの仕事があるんだけど予定どう?」
淳一少年「土曜日ですか?酒屋のアルバイトが無いので大丈夫ですよ。」
岸さん「仕事内容はリング、会場設営、
イス並べのみで片付けは希望者だけで嫌なら試合終わったら帰って大丈夫だから。」
淳一少年「楽な仕事ですね。」
岸さん「ただ…。」
淳一少年「ただ?」
岸さん「ギャラが出ないんだよね。
準備が終わったらチケットを受け取って試合は観ていいから。あと、川満くんも来るからさぁ。」
淳一少年「ギャラはでないけど川満くんも来るなら、1回やってみようかなぁ。」
こんな感じで参加することを決めます。