福島正則東の押さえ・備後神辺城 | 全国織豊系城郭踏査報告記&影照の盆栽奮闘記

福島正則東の押さえ・備後神辺城

暑い夏になり暑さのためか、精神不安定な自分を感じ、あてもなく城郭めぐりをすることにした。


訪問予定の城郭は、神辺城、備中猿掛城、近江長浜城くらいしか計画を立ててはおらず、気が向いたら北陸城郭を調査しよう程度の考えで、昼過ぎに自宅を出発した。


ETC効果で高速は流れがやや悪いものの、それほど目立って悪くはなく、福山東インターで下道に下りて、神辺城を目指した。


現在は吉野山公園として知られ、桜の名所として知られ、又郷土資料館が存在する。

ほぼ山頂部まで車道が整備されていることは誠にありがたい。

しかし大手門が存在したと思われる広大な谷間は現在遊具が並び、児童公園となっている。


織豊期の城郭・近世の城郭&影照の盆栽記

<児童公園と化した大手門周辺と、山頂部主郭方面を見る。>


城郭は南北朝時代から始まる。

建武二年備後守護に任じられた、朝山次郎左衛門景連が築城しここを守護所としたと伝わる。

その後記録が途絶え、延文元年(1356)に山名氏が新たに備後守護職に任じられているので、朝山氏は戦乱の中で滅亡していったと考えていいだろう。

以後天文7年までの約160年間山名氏が備後を支配している。神辺城に直接つながりがある記録は、嘉吉3年(1443)に山名氏の一族、山名近江入道道泰が守護代として入城したということのみで実態は明らかではない。


戦国の世となり神辺城も血なまぐさい出来事を多く迎えることになる。

中国地方の覇権を巡り、大内義隆は尼子と結ぶ山名氏のこの城を家臣杉原理興に命じ、陥落させるも杉原氏は大内義隆が尼子攻めで弱体化するを期に尼子方に与し、有名な神辺城合戦が行われる。

大内方は弘中隆兼、毛利元就が城を攻めるも、なかなか落城せず、持久戦に入った。

天文16年大内氏の神辺城攻撃は本格化し周辺の城郭も陥落させ、ついには杉原氏は逃亡、神辺城を手に入れている。

弘治元年(1555)大内義隆は謀反にて亡くなり、杉原氏は毛利元就に詫びて家臣となり神辺城に戻っている。

その後杉原氏は周辺豪族を従え勢力を伸ばすも、兄弟間で争いが発生し、没落したと考えられる。

その後一時は毛利氏直轄城郭になったり天正19年には毛利元就八男の元康が入城したりと毛利家にとってかなり重要視された城郭であったことが伺える。
関ヶ原後も福島正則は領土の最東端の城郭として重要視し三万石で家老福島丹波守正澄を配している。

廃城は元和5年(1619)福島正則改易後と伝わり、元和一国一城令直後に廃城だったわけではなさそうである。

しかし三原城も存続しているところを見ると不自然であり、廃城措置はしたものの、建造物は存在したと言う形であったと考えられる。

福島正則改易後、備後国主には水野勝成が10万石で入城し、新たに福山城を築城、神辺城の資材は移築されたと言われる。

資料館が存在する峰と主郭部の峰との間に駐車場があり、そこから本丸まで多少登山となる。


先ずは資料館で神辺城に関する資料を確認した。


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<軒丸瓦・飾瓦>

釘抜紋瓦とある。もし家紋軒丸瓦なら福島藩の支城では唯一の発見事例である。三巴紋軒丸瓦は他の福島藩の支城に比べ、焼成は良く硬い。製作も丁寧である。


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<軒平瓦>

こちらも丁寧なつくりである。滴水瓦の要素も見せ慶長段階の作風を見せる。この城郭が細部にわたって丁寧な築城であったことを感じさせる。


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<鯱瓦>

こちらも鱗の表現も細かく丁寧である。

この城郭には天守の言い伝えが存在しない。天守台も存在しない。しかし三層櫓の林立、周辺の峰峰に多層櫓が存在し、周辺一帯を城郭と化していたことが理解できる。

このような城郭は関ヶ原後においては稀であり、戦国期の流れを汲む城郭であったと理解でき、東からの敵襲来を現実視していた福島正則の緊張感も読み取れる。


では遺構を確認しよう。

駐車場からすぐに空堀が確認できる。


織豊期の城郭・近世の城郭&影照の盆栽記
<空堀>

ここから主郭群が上に展開している。

現在散策し本丸にいたる道にも瓦片が埋没しており、瓦がふんだんに使用された城郭であることを実感させる。

西の郭に到着した。


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<西郭>

現在トイレが建設されている。写真後ろの法面には瓦がこれまた多数確認でき、稜堡的な郭端には櫓などを配していたのではと感じる。縄張り図を確認しても、郭の先端部は尖っており、櫓を置いた時の攻撃力は強力である。


この郭から二の丸、本丸へと進む。


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<二の丸下の法面>

急勾配の法面で仕上げている。しかし石垣も確認できない上、虎口も技巧的ではない。

細い道を進むと二の丸の広場に出る。


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<公園的な二の丸>

この城郭で一番広い郭である。しかし平時は麓居館に城主は居住していたと思われる。居館跡は現在北麓の天別豊姫神社と伝わる。居館周囲は水堀が存在したらしいが現在は確認できない。

二の丸からいよいよ本丸に向かう。


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<本丸下の一二三段>

この城郭が階郭式であると言うことが分かる。ただ他の福島氏の城郭に比べ圧倒的に石垣は少なく、虎口も明確ではない。その面では三次の尾関山城に近似する。


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<本丸下の郭から見た二の丸>

歪曲しているところが多少外側の敵を包括し攻撃する場合威力があろうかと言う程度である。


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<本丸下の残石>

本丸周辺には石垣の石材と思われる石が多数確認できる。しかし矢穴痕は見られず、これもまた福島氏の他の城郭と違う面である。

この郭でやっと石垣が確認できた。


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<本丸下の郭の石垣現状>

残存状態はかなり悪く、このまま保存対策を採らないと崩壊する危険性を感じる。


いよいよ本丸に入る。

本丸の虎口は内枡形であったことが現在でも確認できる。残存状態は良好とはいえないが、福山城築城にあたっての破却の爪あとが現在の遺構の把握の難しさにつながると思われる。


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<本丸内枡形虎口>

本丸は現在は礎石も確認できず、花見の公園と化している。暑い今時分は私しか訪問しておらず、遺構確認を堪能した。


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<本丸現状>

塁線は横矢も現在では確認できない。天守櫓と起債された資料も存在するが、その櫓が存在した櫓台も存在しない。発掘調査においても礎石は確認されたが台は確認されていない。礎石上に直接重層建築を建築したと考えた場合、三層の櫓でもダメージが大きい。本当に今言われているように三層櫓が林立していたのであろうか?

それとも塁線は総石垣で法面崩壊を防ぎ、重層建築を可能としていたのであろうか?瓦が出土しなければ戦国期の城郭と見間違うような城郭である。

本丸から北に延びる郭の現状を確認した。

道は獣道で危険であるのでご訪問の際は注意していただきたい。

織豊期の城郭・近世の城郭&影照の盆栽記

<本丸北の下の郭一二三段>

左端に石垣の根石が確認できる。


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<石垣根石現状>

これからすると本丸周辺は石垣が構築されていたことが確認できる。

福島藩の支城を確認していくと、虎口は技巧的ではなく、あくまで外郭で敵を弱体化させる様相を見せる。であるからして城内に敵が侵入した場合はもろい構造である。石垣の残りの良い亀居城(復元箇所が多いが)、小関山城、鞆城でも同様のことが言え、福島氏の築城術が確認できる。豊臣政権下で同僚であった加藤清正とはまったく違った築城を見て取れることは誠に面白い。


瓦であるが現在確認できるものは全てコビキBであり福島氏時代の瓦製作技法はBであることが確認できた。

五品嶽城を紹介したら、福島藩の城郭は全てご紹介したことになる。


次なる目標は岡山県の猿掛城。暑さで汗をぬぐいながら、次なる目標に車を進めた。

待ちどおし 秋の香りと 涼しさよ 寂しき心も 忘れる夏の日  


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