西欧に、想いを実現させる「魔法の杖」があります。それは”rationale(ラショナール)”と言う言語文化の中に秘められています。対する日本にも、「モッタイナイ」と言う国情に根差した言語と文化があって、ケニアのマータイさんに発掘されました。

 

"rationale"言葉と概念は、ラテン系の綴りと音を感じますから後年、英語圏に定着して行ったのだろうと推測しています。日本文化にはない言葉で、ひいて日本語で表現するならば「あることをすることの合理的な意味づけ」当たりが妥当だろうと思います。欧米人にとって自身で心底から納得できない指示に盲従することはデキません。納得デキない限り、行動するのは無理なのです

 

コロナ禍が続いている今、日本人はマスクをつけて外出しますよね。問答無用で黙々と「右へ倣い」することが、生まれながらにして当然のごとくできる特質を持っているからです。そういう黙って付和雷同して行ける(それにも増し、忖度して行ける)素質を備えた人が日本人として日本に生を受けたのではないかと、私は感じています。インターネット以前は、流動性に欠けました。

しかし、航空機や通信技術の発達に伴い、そのような人と住む土地との一致性、シンクロ度にズレが生じてきている感じがします。私自身、日本に生まれ落ちて以来、幼少の頃から違和感しかありませんでした。そして、英国へ移民してみて「そうか、自分は本来、英国で生まれる筈だったのだ」と実感したのです。私は、rationaleを教わっていませんが、生まれつき知っていました

 

インターネット以降、航空機での移動もあいまって、世界の人々が国境を越えて移動できる時代になりました。均質化してしまっては無意味ですが、異文化を持つヒトやモノが交じり合ってお互いに影響を与え合う環境が整備されたのです。そんな中でも、古式に則った訳読中心の英語教育が日本では今も一部、続いてきているのが時代錯誤もいいところなので、そこは酷く残念でなりません。

↑ハリーポッターの「魔法の杖」である"rationale”の考え


論文を書く話と、どう繋がるのか不審に思える読者もいることでしょう。筋道だった学術論文は西欧で生まれた学術文化の結晶であり、このrationaleの要件をクリアーしない限り、日本人が論述的な論文を構成して書くことなど、どだい無理な相談なのです。私の知る限り、ここに踏み込んだ日本人の手になる文書は見た経験がありません(私が見落としていましたら、ゴメンなさい)。

だから、この段階では”総論”として、rationaleの要件を予め吟味しないうちに書き出すのは、無謀な行為だと証言しておきます。準備運動(心の準備・・程度の意)もしないまま、イキナリ本番の試合を始めるような行為に喩えたら解りやすいでしょうか? 日本人は日常的に学校や職場で理不尽な行為に晒されることが月並みな社会環境にいるから、感覚が麻痺しているのでしょう

 

学術論文の執筆支援サイトや欧米の大学の留学生支援サイトを探したら、rationaleの書き方を指南するサイトが見つかる筈です。が、日本の大学(ましては、中高)には見つけ出すことは難しいと思います(もし私が見落としていたら、ゴメンなさい)。

 

このrationaleの吟味を行わないうちに論文を執筆するのは、とても危険な行為だと思います。ある意味、弊害を招きます。日本の学校教育は、文章を書くことの意味を十分に解かないまま、行事や読書を題材にした感想文を生徒に書かす暴挙を繰り返してきたと、どう私は感じています。何となく「らしく」見えたなら、それで構わないという安直な、体系化の乏しさが見え隠れします。

 

rationaleを意識したなら抵抗感が緩和され、日本人でも論文を書こうとする時の負担が解消されます。そのステップを誤魔化し、無視したままで先へ進もうとするから理不尽な軋轢を生じ、無理だと感じ書けなくなって竦むのは当然の展開だったのです。

 

以上は”総論”ですので、次回から具体的な”各論”に入って行きます。利用できる日本語の情報が乏しいので、敢えて触れました。

 

付記

以下に、論文執筆に当り”rationale”を吟味することの大切さを主張しているウェブサイト(英文)を紹介しておきます:
※英文ですが、論理的な英文の構成に慣れると日本語よりシックリと自然に頭に入って来るものです。日本語で学術研究するのは難しいと私は思っています(ただし、私の言う英文読解は、日本の教室英語と全く別なる世界だと言う点にご留意下さい)。

 

 

 

 

 

動画解説(上級者向け):