通信制高校における通学コースとしての「スーパーサイエンスコース」は、2014年4月、たった1人の生徒からスタートした。1名でもいたからこそ存続してきた。経営的に見たら、少人数は褒められた話ではないことくらいは、分かる。人頭税と一緒で、生徒が集まれば集まるほど、売り上げは見込める。当たり前の話だ。しかし、それだけでは、能がない。活動を通じて何らかの教訓を得られないのなら早晩、衰退していくしかない。
逆に、少人数であれば生徒への目が行き届き、観察することでそこで何が起こっているのか「現象の説明*1」も「理由の説明*2」も可能となる。
*1 「現象の説明」とは、例えば太陽光がプリズムに入ると、虹のような多数の色に分かれる・・という説明を指す。*2 「理由の説明」とは、光が色に分解される現象を光の「波長」という概念を用いて、そうなる過程を説明することを指す。
生徒が2人になった時、お互いが影響を与える様子を実感した。学校に登校してくる時間を競っているようにも見えた。また、活動内容に関しても各自の個性との相性を見極めるような行動も観察できた。
サイエンスコースがスタートして4年目、初めて異なる個性を持つ生徒が3名、揃うタイミングを得た。一人ひとりの関心も、持ち味も、学習の進み具合も異なる。しかし、この違いがお互いに影響を及ぼし合う点で、絶妙な効果を生むことが分かった。まるで凸凹がお互いを補い合うように、伴に刺激し合って成長していく様子が手に取るように見ることができた(これを、「ピア効果」と呼ぶ)。
↑個性の異なる生徒が3人揃うとダイナミズムが生まれた
これまでの学校教育では、同じタイプの生徒を篩ってまとめるやり方を好んだ。その方が管理しやすいと考えたのだろう。「モノ」づくりなら材料の均質性を求める方向は、正しいかも知れない。しかし、学校教育では「ヒト」を対象にしている。しかも、人が育つためには「ダイナミズム」が必要だ。ある程度のバラツキがあってこそ、そのズレから生まれるダイナミズムと思う。
だから今までの学校教育は、入試選抜で篩って、対象となる生徒を一旦、均質化させておき、その後、競い合わせる愚を犯している。しかも、試験は成績が良い方から悪い方までキレイに分散させる方が良いと考えている。そもそも本来は、何を目的にしているのだろうか?
考えれば考えるほど、愚かな非人間的な行為だと思えてくる。クロマトグラフィーではあるまいし、人を育てるのが目的なのか、デキる生徒とデキない生徒を作り出すことが目的なのか? どう冷静に考えても、賢い営みだとは言えない。そこは、盲目的だったのだろう(竹内記)。
追記:
世の中に「競争」を肯定する声はある。しかし、その「競争」が「どのような意味合いでの競争なのか?」を問う声は聞かれない。細かくは考えないのかも知れない。が、明らかに「競争」と言った場合、どう捉えるかで中身がまるで異なってくる。恐らく世で言う「競争」は、同一のゴールを争い合う、そんな修羅場の競争なのだろう。お互いを蹴落とす結果になることなど、火を見るより明らかであろう。
私が考える「競争」の意味は、まるで違う。先ず、タイミングとして先に成長し出した生徒がでる。その成長した生徒を傍らで見て、次に成長するのは自分の番だ・・と自覚して、次の生徒の成長が起こる。さらに、その2人の生徒の成長していく姿を見て、自分も続こうとする。かくして、次から次へと成長し出す生徒が輩出し、それを学校の外から見ていた生徒が、自分も後に続きたいと合流をしてくる。そんな流れが生まれようとしている。学校って、そういう「成長の連鎖」を次々と生み出す場であって良いのでないか? それが、学校ではないだろうか?
