教育デザイン室長の竹内です。

 

私は、英語科教員でありません。でも、英語のユーザです。日常的に英語の論文を読み、時に書くからです。科学研究を実践していくために英語ユーザである必要があるからです。JICA専門家として海外の政府機関で英語媒体で業務を遂行してきました。大学院留学もしてきました。英国へ高度技能就労者(Highly Skilled Migrant Programme, HSMP)として移民していました。自宅も購入し、ペットの犬も飼っていました。

 

海外で暮らした後、日本の国立高専で教員に採用され、専門分野の教員として学生に工業英語を教えてみて、ハタと気づいたことがありました。それは、自分が学校で学んできた英語を海外での業務や研究に全く使わなかったことです。日本の英語の授業は、日本人の教員が日本人の生徒に教えるために存在していたのだとハッキリ自覚できました。なぜなら遠い昔に封印していた学校英語を日本人のために伝えるために掘り起こす必要があったからで、自分が自分のために英語を使う時には、全く無用の長物だったからです。

 

高専では、英語科教員を差し置いて国際交流室長を務めてきました。表面的な語学の域では済まない、専門分野での関係構築が必要だったからです。交流相手国は、米国、中国、ロシアでした。圧巻だったのは、ロシアです。工科大学だったことも手伝い、それまでの英語科は解体され、各学科に割り振ると、その学科の教員や学生をサポートする業務へリフォームされました。英語を言語学や文学として扱いたい英語科教員は、それに相応しいポジションへ移ればイイのです。工科大学にとっては、英語科教育は極く一部の教養を除けば迷惑なだけだと思います。実際、トムスク工科大学で、この英語科教員の再配置は十年戦争だったと聞き及びます。その代わり、同大学は研究大学として昇格したそうです。

 

学生時代に大学教員リストの構成比を調べていて愕然とした覚えがあります。教養課程(旧制度の大学1・2年)の英語科教員の人数が圧倒的に多いのです。つまり「語学教員」が「専門教員」と同等の扱いを受けてきたのです。言語学や英文学を専門に教えるのなら解ります。単に、高校英語の延長線上の英語科を「訳読授業」してきただけです。高専で教授として教員採用に参画して日本の英米文学の学位論文が日本語で書かれていた事実です。私は英語科教員ではありませんが、日常的に英語を媒体として使っていますし、自分の生徒も同じようになって欲しいと願っています。英語が使えると格段と視野が広がり、思考も深まるからです。第一、米国では語学としての英語(母国語)を教えるネイティブ教員の給与は低いのだとコロンビア大学の先生が証言しています。逆に、日本人が英語を教えるからと言って、英語も使う専門分野の教員と同じ立場に置かれるのは、何処か理不尽だろうと思います。

 

←世界標準の英語試験。日本の入試が勝てっこないです。

 

日本の英語教育って、これまで詐欺だったんじゃないのでしょうか? 猛省して欲しいものです。こっそり「時代が変わりました。とか言って、トボけて欲しくはないものです。日本人は、これだから近隣諸国から「反省が足りない!」と指弾されるのです。知らない内に「こそどろ」のように入れ替えて済ませようとしている。その間に、どれだけの国民が損害を被ってきたことだか・・。英語科教員を再生産し、日本人を英語科教員にするがごとき方向性は間違いです。

 

私は、英語が苦手だと言う生徒に対しては、「関係ないね。キミたちの教わってきたのは、英語じゃないんだから。」と伝えます。中々、理解しては貰えないのだけれど、海外で英語教育を受けたなら一度に氷解すること保証します。まるで違うのだもの!

 

今更ながらですが、英語四技能の導入、遅まきながら歓迎します。でも、なぜ変えるのか、ホントの「説明責任」が必要ですね。日本語には欠落している部分があるんですよ。だから、それが思考にも社会にも反映してしまうのです。英語圏なら「感謝」でも「謝罪」でも「理由」が添えられないとダメです。試験でも、たとえ「正解」であっても「理由」を書き添えるのが通例です。日本には日本の文化があることは承知しています。しかし、世界は違う・・という事実は今のグローバル化時代、見識として押さえておくべき部分です。

日本の英語教育関係者は、こそこそせず日本の国民(特に、第二言語習得の最適時期を逃した世代)に対してハッキリと謝罪した方が潔いと思います。今まで罪なことをして、たいへんスミマセンでした、と(竹内 準一)。

 

追記:

英語教育だけに留まりません。日本は、どうやら正しい方向だと薄々、解っていても「変えていく」ことができない国民のようです。例えば、英国で開発された河川など水質汚濁の指標となるBODの試験方法が、日本のJIS法で改まっていないのです。英語HMSOが刊行する試験方法にはハッキリ訂正がなされており、しかも改正に当たってはその理由と根拠、さらに教訓として、「いかなる試験方法も事前に十分検討しても、現場の末端ユーザが問題の第一発見者になることを認め、通報するように」と求めているのです。

日本人はおとなしく、人が良さそうに見えているのは内実、自信がなく”気弱”なだけであり、その反面”底意地”が悪いと思います。転んだ人を見て、前なら陰でヒソヒソ笑っていました。それが今では、手を叩いて囃し立てていませんか? 弱い羊の群れ集団であり、形勢によって付く方を変える卑怯さはありませんか? ホントの孤高の日本人らしい日本人、どこへ行ってしまったのか? いつ何処で身売りしてしまったのか? 目醒めて戻って来て欲しい。