謹賀新年
教育デザイン室長の竹内です。休止していた当ブログを復活することにしました。学校の公式ブログ「サイエンスコース」の方と役割を棲み分けしてきたのですが、軌道に載るにつけ実質、一本化が進んで行きました。要するに、公式ブログの中だけで言いたいことが言えるほど、日本社会の中で教育改革が進んできたことです。しかし、上記の公式ブログの枠内では書き切れないコンテンツが溢れてきたので、そこを補完するため、このブログを再度、活用することにしました。
私が目指しているゴールは端的に言うと、日本の公教育を好ましい方向へ改革していくことです。いろいろな道はあるでしょうが、私は幸いと大阪の(構造改革特区法が定める)教育特区に開校した株式会社立通信制高校(卒業証書が単独で出せる正規の学校)の一つの通学コースを担当する縁に恵まれました。理科室で朝から晩まで実験したり、平日に野外へ調査へ出たり、博物館へ行ったりと、「探究学習」に100%邁進できる可能性を秘めています。英語で論文を読み、必要とあれば英語で論文を書き、研究発表をしたり具体的な課題に取り組みながら、大学や専門学校へ繋ぐ学びを自分自身の成長と絡めて学んでいける高校、それも個々人のニーズに応える高校は、少ないとだろう思います。言うまでもなく、既存の学校がカリキュラム構成に余裕がないからです。
必要なのは、①現在、定められている学習指導要領を満たすこと(通信制課程なら、映像コンテンツとスクーリングで対応)、②生徒が通学できるキャッチメント・エリアに実験室を持つこと(大阪の梅田で実現しました)、③研究指導する教員・・の3条件が必要でした。物的な条件の①と②でなく、人的な条件③が整えるのが難しいかも知れません。私は、高等教育機関の国立高専を辞めて高校へ降りてきました。私が見聞した限りでは、京都市立堀川高校では、理研を辞めて高校へ降りてきた博士号取得者がいると聞きますし、高校教員の中でも努力して博士号を取得した教員がいます。また、リバネスには修士号、博士号を持つ職員が揃っており、大学院生のインターンシップも掛けて少なからぬ人材が高校生のメンターとして研究を支援する体制が整いつつあります。加えて、教職大学院でも研究指導に当たれる博士号を持つ高校教員の人材育成を着手することを見込んでいます。
私の狙いは、「高校の方が(実は)大学よりも魅力的な研究ができる」可能性を実証したいことです。これは、高校と大学が一緒になった高専に勤務してみて実感しました。この部分が、日本の(下手したら世界の)教育から、ゴッソリと抜け落ちているエアポケットになってしまっていることに気づいたからです。ここに気づけると、如何に今の高校課程(後期中等教育課程)の教育デザインが不在な状態にあるか、人間が生まれてきて最大の成長期にあって実に、勿体ない扱いをしているのかが見えてきます。私には、それがまるで生きた人間の首に縄を掛け、足を引っ張る行為に見えてくるのです。だから、そうして有為な若者の一部が、自ら生命を断っていっているでしょう。
私は実践していることは、そのような不本意ながら不幸を強いられてきた魂に対する、遅まきながらのレクイエムでもあります。私は14歳には気づいていました。でも、自分自身を含め、どうしてやることもできませんでした。でも、今ならばなにがしかの活動ができます。その年齢に達しました。それを実行しないことは罪であるとすら認識しています。遅くなって、スミマセンでした(竹内準一)。
追記:
「高校の方が大学よりも魅力的な研究ができる」可能性を世間に認知して貰うためには、実証して行かないとなりません。が、概念的には「研究」を「医療」に見立てれば簡単なことです。欧米の医療は、街角にあるようなクリニック(診療所)で初期診断を担う医師、すなわちGP(General Practitioners)と大病院で専門医療を担う研究最前線の医師の役割を明確に分けています。高校と大学の教員の関係、も全く同じです。医療の場合は「初期の症例」の発見ですが、教育の場合は「有為な才能」の発見という違いがあるだけです。
両者に上下関係は本来、ありません。そのような序列をつけることを好む人種(特に、日本人は「偏差値信仰」で騙されている)に理解は難しいかも知れません。原理的には、「症例」だろうが「才能」だろうが、常に「第一発見者」となる栄誉(同時に責任でもある)は下位の学校にあります。しかし、階層で見るから下位に見えるだけで、人の流れで見たら上流(upstream)川にあるのです! どう見ても、この国に生まれた才能を最初に見い出すのは、幼稚園・保育園の先生だったり、小学校の先生だったり、中学校の先生だったりするのです。ちょっと考え方を変えてみたら、役割や価値も違って見えます。前へ進みましょう。
