❏ 決まった鋳型にはめ込む破壊行為
日本の学校は、決まり決まった授業と試験で回していく。それが教員の労働対価として設計されているからであり、生徒を成長させる云々は眼中には基本的にない。確かにロボット人間を作るには、それで良かったのだろう。私のコースに在籍する生徒から”意味深な”自主制作のアニメ作品(CHILDREN)を紹介された。明らかに、日本の学校教育の本質を一つの視点から風刺している作品と解釈できる。子供たちの口がファスナーで閉じられていて、自分の意見を口にすることすらできない状態に置かれている。そこで教員はあくまでも、"にこやか"に見せかけているところも、背筋が凍る不気味さを醸し出す。
↑日本の学校教育を風刺した趣きの自主制作アニメ作品
国民すべてが通過する学校がこの有り体では、家庭や職場がおかしくなるのも当然である。学校ではイジメ、家庭では不和・暴力・虐待、社会ではパワハラ。鶏と卵との関係よろしく、どこから手を付けたら良いのか分からないが、それは共通項の学校という"関門"からだろう。だから「自分を守るため」に学校を忌避する、いわゆる不登校は権利であり、むしろ頭脳や感性を麻痺させず、賢い選択なのかも知れない。それほど、学校教育は熟慮されていない。
❏ 教育機関の勢力図も書き換えられよう
普通科は、工業科や農業(水産)科と比べ、設備も専門性も不要だから、最も"安上がり"な教育課程であると見るのが正しい。それを"受験体制"で巧みにカモフラージュしてきたのだ。私は緊急避難的な措置を取った姿勢を避難する気はない。が、この国の"前例踏襲"の空虚な安心を好む、怠け癖の国民性を見たら、一度決めた点を変えることは至難のワザなのだ。
日本人が"働きモノ"と言う評価は、私はウソだ思う。授業が一度、カタチができたら繰り返せばイイからお気軽なだけ・・。面倒な工夫など、したくはないのがホンネなのだろう。黙々と繰り返す作業を続けることが真面目だと定義するのなら、それは当っている。が、それが真の意味での真面目さなのだろうか? この国で使う言葉は定義から吟味し直す必要性がある。
試験が唯一の正解を定め、その解答を求めるのは採点の便宜のためだけである。この訓練を繰り返すと、思考は硬直化する。つまり頭は劣化するのだ。学校は頭を悪くする勉強を強いている・・これが私が国立高専の教壇に立ち、中学を優秀な成績で卒業してきた新入生たちの変遷を見守ってきた私の結論だ(高専をロボット養成所と見るなら別だ)。そんな安直な採点をすることでダメになるのは学生だけでない。教員も確実の能力を喪失していく。マトモな神経があれば気づくはずであるが、既に手遅れだったのだと思う。痛ましいことである。
適切な措置を施せば、壊れても再生はできなくはない。が、壊れる前に対処するのが、賢い措置だと言えるであろう。一部の塾は、そこに着目し出したようだ。そして改善効果は約3ヶ月で見える。これも私の経験と一致する。そうすると今後、小回りの効く塾を中心に、教育機関の勢力図が大きく塗り替えられていくことであろう。碇ゲンドウよ、リアルな人類補完計画が、いよいよ始まったな(竹内)。
