❏ オン・オフの切り替えは「成長」ではない
以前、同僚であった女性教師から「あの子たちは、試験が終って解放されただけでも幸せなのよ。」という言葉を聞いた。それまでは全く意識したことのない視点だったので、聞いて驚いた。確かに一面で、人間は嫌なコトをそうでないコトが交互にやってきたら満足してしまう存在なのかも知れない。しかし、私は、それでは人生が寂しいなと思う。そして、自分は"覚醒"した者として大きな責務を担い、その使命を果たして行かなければならないと改めて感じた。
↑USJの最高潮のパレードと宴の後に路上に残った紙吹雪
(左のパレード中のショットは、2年生の岩田くんが提供)
今日は勤務している通信制高校の遠足で引率役としてUSJへ来た。朝イチでハリーポッターのコーナーへ行き、3Dを堪能してきた(解らないまま長蛇の列を並び、載せられて・・だが)。魔法学校のガウンも杖も欲しかったが高価だったし、奇跡をいくつも起こしてきた自分の人生の中で常に"魔法使い"の端くれであったと、自認しているので自重してみた。
❏ ADHDの生徒らを通じて見えた不合理社会
通信制高校を選ぶ生徒が一様に学校の勉強や規律正しい生活が嫌で、仕方なく流れてくる訳でもないようだ。それなら、このような"楽しい"と思しき学校行事には率先して参加してきそうなものであるが、単純にそうとも言えない。恐らくはオン・オフの切り替えごとき"偽装された幸福感"では満たされないものがあるのだろう。さりとて、何かに打ち込むとも言い切れない宙ぶらりん(変速ギアに喩えるなら"ニュートラル")な何かがある(無論、個人差があろうが)。私自身も、USJが用意した「楽しさ」の演出を拒絶する訳ではないが、これがホントの人生の満足感だとも思えない。平日にも拘わらず喧騒な中、この刹那的時間を楽しいと捉える人が多いことも現実なのだろう。私にしかできない役割を見つけている私には、USJ行きに二度目は、もうない。善人が先に死んでいく日本社会を放置しておく訳には行かないのだ。今日の私の心は先日、この世を去っていった2体の魂へと我が身の無力さを詫び解くと、回向していた。
穿った想いかも知れないが、ADHD系の子たちにも共通点があるような気がする。私の妻も、「遠足の往路は楽しくても、帰路に(予測される)空虚感が嫌だった。」と語ったことがあった。私も子供時代の旅行では常に同じ想いを感じたので共感する。彼女は幼少の頃から虐待を受けてきたためハリーポッターの冒頭部ではないが、他者の心を読み未知を知る不思議な力を獲得している。苦悩が論理(左)脳にストレスを与え、代わりに感性(右)脳が補填的に発達した可能性がある。ADHDの子たちにも共通した事情があり、現実社会で生き難い状況下に置かれていると解釈することが可能である。彼らの能力が劣っている訳ではない。真逆で一般人より知能指数(IQ値)も高く(代わりに優しさ指数のEQ値などの代替指数)、ロボット人間を作り出す"高校課程"や"受験体制"には合わないのは、当然過ぎることなのである(竹内)。
追記: 現在の高校課程から大学・就職に至る人の人生や社会の命運を握る重要なポイントで大切なコトが誤解されてきているようなので、問題提起しておきたい。それは、様々の事情によりストレスを受けて脳がアンバランスに発達してきたADHDの子たち(受験秀才も別な意味から、アンバランスな脳の訓練を受けている)の社会への不適合性が問題になっている。特に、日本の社会や組織は画一化が過度で、極めて同調圧力が強く、異質な人間に対して排他的である(モノによっては寛容な一面もある)から影響が顕著に出ている。概して、ADHDの子は「感じる頭」を持つためIQ値も高く、日本の学校の勉強(特に、受験勉強)で、世間で理解されている方向とは逆に、頭が悪くなる。それは解き方を含め、「覚える頭」にさせていくことが、現在の日本の学校教育だからである。「悪貨が良貨を駆逐する」とは、日本の学校がしている悪業を指していると、私は思う。実際、私のスーパーサイエンスコースの「探究学習」では、問題を発見し、善処し、解決する力を養うことを実践している。学校のお勉強が染み付いた生徒に対して、私は「そうじゃない!」と語気を荒くせざるを得ない場合(相手にもよる)も生じる。それが軌道修正されていくと、私は「生徒が育った」として安心する。しかし、保護者の中には子供に「見透かされる」ようになった、として敬遠されることがある。私の最初の亡妻の養母も同じ反応を示した。"開眼"し、私が良くしたことで敬遠されてしまうことがわかる。前任校(国立高専)の教職員から「真実を知らないでいる方が、学生には幸せなのではないか?」という助言が寄せられたことがある。しかし、私が独自に実施したアンケートの中では、1年生(15歳)から「一生、役に立つ勉強を教えてください。」という切実な願い(卒業までには喪失する;意見を口にしないロボット人間と化していくからだ)が書かれていた。この種の議論を日本の教育機関は一切、論じない。終末医療現場の声は、死にゆく人が口にする「もっと自分らしく生きるべきであった」という後悔の念を伝えているにも拘わらず、虚実と欺瞞がこの世界では蔓延している。正義や誠実が死んでいく。今ある虚構社会は設計を間違えて作られた「崩壊すべき世界(鏡の中の世界)」だと、そう私は痛感している。残念なことである。この国には、私と本気で議論できる人間はいないか?
