❏ 授業と試験に教育力なし
日本の学校教育には、学びの効果が出るようにデザインされた形跡がない。私は最初、まさかと思ったが、疑う余地がなくなってきた。あくまで「間に合わせ」の職務で「埋め合わせた」だけのように見える。受験校も進学校も、ホントの意味で人の意欲が伸びるよう/人が育つよう丹念にデザインされているとは思えない。ただ、そこにあるのは、教員も生徒も「時間の浪費」以外の何モノでもないように感じる。人生の成長期にもったいない。よくぞ何十年も見直されずに、今日まで存続してきたものだと思う。
なぜ、そう断言できるかと言うと、人が育つ過程では教員にも生徒にも成長していく様子が手に取るよう分かるからである。かつて日本の高度経済成長期に「成長している」という実感が伴ったと聞く。が、そのような感想が学校教育の現場で話題になったことってあるだろうか? 仮にあるとしても、スポーツ、音楽、アニメ、ゲームなど、教育の本流からは大きく外れた分野であるまいか? ズバリ学校が機能していないことを示唆する証左であろう。
そう確かに、教育の本流から外れた分野では日本人は高い実績を誇る。だから日本人の能力が決して劣化してきた訳ではないのだと分かる。ノーベル賞を連続技で取っているだろう・・との反論が聞こえてくる。が、たしかに類まれな素質も努力があったことだろう。しかし、かなり艱難辛苦を余儀なくされたサバイバーではないのだろうか? そして時間差を考慮すれば今後も、日本から栄誉が続くという甘い見込みなど禁物だ。
❏ 動機と自己認識が仕事力
予備校最大手の河合塾が「高校生たちに求められる力の変化」を明確に指摘している。自分たちが受験産業隆盛の基礎を固め、受験体制に長く君臨してきたにも関わらず、自ら国家存亡へ向かう危機感を感じ、警告を発しているようにも思える。それほど洗脳は、幅広く国民の隅々にまで強固に行き渡ったと言えそうである。日本の塾や予備校は、金銭と時間の両面で二重投資を迫る「魔女」として、日本の着太り経済の権化として君臨してきた。が、魔法を掛けることができても、「荒れ地の魔女」よろしく、解き方を知らない魔女だったのだろう。
↑目に見える学力(表在)と目に見えない基礎学力(内在)
※Visibleは「受験勉強」の力、invisibleは「探究学習」の力
(日本の教育デザインは根本的な重大ミスを犯してきた)
日本の学校は愚かにも、正誤が明確で点数化できる"皮相的"な部分だけを対象としてきた。それは"うわっ面"だと言えば、ハッキリとその値打ちの低さが理解できるだろう。実際、この世の情報全てを検索可能にする野望を秘めたGoogle社が興ってからは、目に見える学力の値打ちは急速に下落したことは火を見るより明らかであろう。一方、知識を支える基盤部分、こちらの値打ちが下がるはずがない。だが、この基盤(知識を獲得していく学び)を為す能力にテコ入れしようとする学校教育は、極めて少数派なのである。そして、この基礎学力こそが社会で仕事をしていく上での拠り所になるが、学校教育が見逃してきた部分である。この基礎学力は、「探究学習」など一つのプロジェクトを遂行しない限り身につかない。だから、社会で仕事を進める上での"底力"になるのも当然のことなのだ(竹内)。
追記:通信制高校にいる私から見て、小学校高学年から不登校であったり、中学校もロクに行っていなかったり、高校を中退した生徒は、モノにならないだろうと思われるかも知れない。が、個人的には、変な学校の勉強で"餌づけ"された人間を相手するより余程、教えやすい。だから真人間が今の日本の学校から脱出したくなるのは当然過ぎるほど当然のことである。私には、平気で学校へ通っている生徒の方が、魂を身売りしていないかと心配になるのだ。しかし、現実的には"胡散臭い"人間が跋扈し、"助けたい"人間が死んでいく。だから、裁きが下らないよう、私は案じている。
