❏ 笑顔は「目的」ではなく「結果」

多くの人々が、間違いを犯してしまう。笑顔は好ましい。笑顔が好ましいからと言って、それを先に持ち出すモノではない。笑顔はモノゴトを正しく進めた結果として、自然に滲み出るべき「ご褒美」である。本末転倒に作為して、笑顔を強要するのは、嘘をつくのを強要する行為に値する。

 

↑岡本茂樹著『いい子に育てると犯罪者になります』本(2016)の帯から

 

好ましい環境を実現すれば、リトマス試験紙のように自然と笑みがあふれることが、正しい。それを改善せず、誤魔化したまま笑顔を強調することは、欺瞞以外の何モノでもないのだ。当たり前のことである。そんな環境から犯罪者、すなわち不幸が生まれ、死人が出ることなど当然の因果応報なのだ。典型的な清原和博(野球選手)や酒井法子(歌手・女優)の事例で上手に説明しているネット記事の評論があるので是非、参照されたい。

 

❏ 合否も「目的」ではなく「結果」

日本人が因果律に弱いのは、もともと日本語に原因と結果(cause & effect)あるいは事実と意見(fact & opinion)を区別する言語習慣(文化)が脆弱な点に起因するのだと思う。これは、外国で生活するか、外国人と仕事をするか、せめて外国語を実用レベルで用いることを通じて改善されるものであるが、このいずれも日本社会には乏しい。だから日本では会議は決っている議題を承認するセレモニーで終始する(政府系の評価委員会から教授会、学会の評議委員会まで至るところで恥ずかしいほどまで横行している)。そして、意見を述べなければ会議とは言えないのに、下手に述べようものなら、喧嘩でも売るのかと誤解する。到底、日本は、大人が構成する社会だとは胸張って言えないのだ。

 

これが、どこから始まっているかとネジレの元を辿ると、私は大学受験であると睨んでいる。魔法に掛かった元凶は、「受からなければショウガナイ」という「もっともらしい」意見だ。確かに、そう思えるだろう。だが、次を考えたことのある人っているのだろうか? 「受かったところで何をしたいのか分からないければショウガナイ」だ。私に言わせれば、同じこと。何をしたいのか自分で分からない人間が大学へ入って、一つ座席を潰して、邪魔しているだけの話だ。厚顔無知の始まりは、ここに始まり、ここに極まる。それを、どれだけ多くの人が、許してきたのか? 目的と結果、それを繋ぐ手段、これらを混同すべきでない。狡賢い人間を社会に大増殖させてしまう過ちの元凶であり、私はその急所を突く(竹内)。