❏ 授業もしない/試験もしない教育

見出しを見て、何だか宗教臭を感じたかも知れない。私も多少、仏教や神道に関わった因縁はあった。それは、かつて亡き妻が悪性脳腫瘍(グリオーマ)に羅患するという難題にぶち当たり、必死に突破口を探しまくった経緯があったからだ。だが、海外では宗教は教養や生活の一部でもあるし、英国に牧師の友人もいる。基本的に縛られることは嫌いなので、宗教的であることは認めるが、特定の宗教の影響下にある思想でも実践でもないことは明言しておきたい。学びの延長線上にある生き方を論じていくと、どうしても「摩訶不思議な領域」に踏み込まざるを得ないのだ。それは地球人が「機械」でも、「動物」でもない「霊長類」に属していることの発露であると、私は見ている。人は、そこに「覚醒」していく必要がある。

 

学校の勉強をしていくと、全てに答えや方法があるものだと誤解する。小学生相手に教える場合と大人社会のルールが同一であれば、面倒なのは言うまでもない。企業の最高機密事項となれば、なおさらだろう。だから、今ある学校教育は"方便"のようなものであり、その延長線上で画期的な発見や開発ができる道理でないことなど、言うまでもないだろう。なのに、なぜ最初に取り決めた約束事が"便宜"とは言え、"絶対"だと信じ込んだまま、騙されてしまうのか? 今一度、言おう。学校の「授業」にも「試験」にも教育効果は一切、ない。日本の小学校から大学に至るまでの学校教育で価値があったモノを列挙すれば、①自由研究(広義の探究学習や卒業研究)、②学び合い(学活、討論、ゼミなど)、③課外活動(掃除当番や給食当番を含むボランティア、ティーチング・アシスタント(TA)、部活やコンテスト/コンクールへの応募)、それと皮肉なことに(昔も今も、しかも世界に共通する最強の学びは)自学自習する道なのだ。

 

❏ 伝えるべきことは「生き方」だけ

授業や試験は「デカい面」をしているが、その実態は大事なホンモノを守るために古新聞をまるめたクッションや籾殻の類。つまり、保護剤(増量剤)に過ぎない。単なる時間稼ぎなのだ。前任校の国立高専で先代の学校長(元広島大学教授)に私は「無駄な授業時間を減らすことはできませんか?」と進言したことがある。すると、「授業時間を削減すると、仕事を奪わないでくれ!」と教員に反対されたと言うのだ。実際、私は時間割編成や新規科目(新しい教授法を含む)を提案した経験があるので推察できるが、多くの教員は現状を変えたいとは思っていない。このまま定年退職へと"逃げ込む"ことが悲願なのだろう。

 

多くの人は、事故・災害・病気などは突如としてやってくる不幸と捉えている。確かに自主的に動いていない人間(波間に漂うボートに喩える)にとって全ての災厄はランダムに降り注ぐ。が、自分で動き出した人間(モーターボート)にとっては風船を蹴散らすように災厄が避けていく(『となりのトトロ』で森を走るネコバスの場面で、「木がよけて行く」の台詞があった)。これは、志を示し出した人間を応援しようとする働きが介在するからだ。だから一度、志しを持って動き出した人間は(密やかに)覚悟を決めなければならない。それは重みに応じ、死をも覚悟せねばならないほど冷徹な約束(契約行為)だとも言える。このように私は人間を天の「法輪」を回す存在と感じている。超人的な活躍をしている人物は皆、このカラクリだと見る。天の法輪を回し出した人々にとって、起こることは「偶然」から「必然」へと切り替わるのだ(竹内)。

 

  ↑仏教の宝具、「法輪」(闘う武器だが、生きる武器でもある)

            ※筆者が高専の留学生に寄稿した巻頭言

 

付記:これから先、事態の進捗状況に応じ、私は奥義を説くことも厭わない。事態が逼迫しているからに他ならないからだ。それは、世界情勢や日本社会の拙速さ、自然の脅威の拡大化など私たちを取り巻く状況を冷静に見渡した時、誰もが「もう残された時間が少ない!」と実感しているのではあるまいか? 災害・事故・病気は、人に気づかせるために介在する。解って欲しいと、我々は期待されているのだ。