❏ 虚実の「着太り経済」を支えた進学塾
早晩、間違いなく要らなくだろう。最早、日本だけに残る絶滅危惧種だからだ。しかし、危惧されているかどうかは怪しい。記憶に定かではないが、東進ハイスクールの名物講師らでも自らを「必要悪」と自嘲していた文章を見たことがある。ホンネだと思う。私は海外で韓国人や中国人の留学生とまみえたこともあるが、彼らは自国を出て祖国に帰った後で受け入れられる。日本だけが昔から海外へ出た自国民に対し排他的であり続け、外を見てきた日本人から学ぼうとする気概を感じない。散々、舶来を崇めてきた日本人なのに不可思議な兆候であると思える。あるいは何か屈折した想いが根底にあるのかも知れない。ともかく、それが日本の日本らしさを維持していく(皮肉な言い方であるが・・)ことに貢献しているのだろう。高校と塾や予備校の教育内容は大差ない。だから明らかに二重投資だったのだ。経費の面でも、時間の面でも・・だ。そのロスが、今日に至る日本社会の衰退を招いたと私は睨んでいる。
↑ 進学塾の広告も・・今や霞んで見えてくる気がする
第一、限定された出身大学で国民の将来が決まる・・なんて明らかに遺伝的な劣化を招くことなど、生物学の常識を持ってすれば明らかであろう。そんな処遇をしている社会は欧米にはない。確かに教授陣が優れた大学があることは事実である。が、有力大学を出て、そして真に実力があるのならば、地方大学へ移って成功し、しかも行った先の大学を盛り立ててこその真の人材だろう。私の知る限り、欧米の大学には単一化を防ぐ仕組みを講じる知恵が備わっている。東大一辺倒なんて「近親交配」の極みで、気持ちが悪い。 愚かな社会構造を形成してきたものだと、呆れる他はない。今、時代は「多様性」で、かつ「混ぜる」なのだ。
❏ 灘高生だってピンキリだった
名古屋の貸し会議室で過ごしたことがあった。そこで、異業種コーディネータの方から「この方は勉強熱心です。東大の法学部に在学していながら今度、センター入試から受け直して東大の医学部に入ろうとしているほどです。」と紹介を受けた。私は紹介者の意に反し、その若者に対し何の興味も抱かなかったが、挨拶程度の言葉を交わす羽目になった。私は思わず「もしかして・・キミは?」と言いかけた。すると彼は、「そうです。灘高生です。」と隙かさず私に向かって答えたのだ。
彼は私が「灘高生」と聞いて顔色を変えるとでも期待していたのだろうが、私はあんぐりと口を開けたまま押し黙るしかなかった。無論、呆れ顔である。なぜならば、こう自分の言葉を継ぐつもりだったから: 「(もしかして、キミは・・)他人から頭がイイねって、言って貰い続けたいのかい?」と。
考えてみて欲しい。今、どこの誰が、成人した年頃になった相手の高校名など気に掛けることがあるだろうか? 大学名だってつまらない話と思う。大切なのは相手の出た学校名ではなく、何をしてきて、何を考えてきて、これからどうしようとしているか・・だろう。第一、彼の場合、既に大学生の身分であり、なぜ私が出身高校に関心を抱くと考えたのか私は理解に苦しむ。進学塾や受験校が、どれだけこの国に劣化した国民を生み出し、世に出してきたのか気が知れない。まぁ、いいだろう。才能ない人間は試験にしがみつくしか能ないが時代になる。日本の受験主導の学校は、「デキる人」も「デキない人」も伴に、潰してきたように思えてくる。大方、「その方が、管理するのにはラクだ」くらいに捉えてきたのだろう(竹内)。
