❏ 実社会に踏み出さない学校の教員
いつだって、例外的な人はいる。だから該当しない先生には失礼極まりないことを承知で書く。良く考えてみて欲しい。全ての人は一生の間で一定の期間、学校に滞在する。まるでゆりかご(苗床)のように・・だ。そして生徒のみが実社会へ放たれていく。
・・にも拘わらず、学校の教員の大半は、ほぼ一生、学校の塀の中に留まって一生涯を終える。教職は専門職(プロフェッション)だから構わないと、そうでなければ教職のプロになれない・・とでも本人も周囲も勘違いしてきたフシがある。が、この考え方は「とてつもなく」間違っていると私は思う。20世紀最大の失策であると私は半ば、確信している。
↑リバネス出版刊 『教育応援』最新号(本日着)の表紙から
❏ 何の、誰のための「科目」なのか?
もとより学校は「人を育てる」場であり、生徒という顧客を育てる責務を負っているが、随分とまぁ、主客逆転してきた期間が余りにも長かったような気がする。私の目には、あからさまに教員が自分のメシを食らうために、生徒が犠牲者になっているようにしか見えてこないのだ。
教員は多忙繁忙である。それは間違いない。しかし、その業務内容の見直しが行われてきた過去の記録が、この国の学校で果たしてあるのだろうか? 無駄を省かない限り、良い方策が進められる道理はない(故意に改善を拒む手段でない限りは・・)。無論、ごく一部の例外的な学校を除いて・・のことである。実は、その例外的な学校こそ、疑いなく真の意味で「生徒を育てる」のに成功しているに違いないと、私は見ている。違うだろうか?
そして大半の卒業生が、実社会へ出て行く。そこには「英・数・国・理・社」などの区分はない。学校のマトリックスと社会のマトリックスは、学校や塾の類に務めない限りは、同じではない。結局、学校はあたまも教員を再生産するような制度設計のまま組織を運営している。おかしくは、ないだろうか? 上記の(株)リバネスが「起業家教育」を掲げたり、THINKERSが「社教接続」を掲げたり、学校教育が企業や社会との連携を目指さない姿は、いつまで学校や教員が天下太平の眠りに居座り続ける気でいるだろうか、と私は訝しく思わざるを得ない(竹内)。
追伸:自分で問題点を洗い出し、自分で解決策を見い出す力ない者は「食うべからず」の社会になりつつある。私が経験したJICA専門家(二国間の技術協力専門事業)の契約型特任業務、ドラえもんの四次元ポケット張りで「使えるモノは何でも使う!」という逞しさが要求される業務だった。
