❏ 英語の教科教育が到達できない領域
日本の教育界のように英語を一つの「教科(subject)教育」としか捉えてない限り、ここから先の議論に加わることは到底、無理な世界である。大多数の日本人にとって未体験ゾーンであろう。このことと日本の英語教育の問題、すなわち、日本人が世界一の英語ベタであることとは因果関係がある。そして、私がその問題の想像以上に根深い問題の所在を知ったのは下記の本からである(ドラマ化もされた)。
↑近藤紘一著(1981)『サイゴンから来た妻と娘』(文春文庫)
第10回(1979年)大宅壮一ノンフィクション賞受賞作品。私はこの本をバンコクの日本語書店で手に入れた。日本で返品され本の下の部分(地)を赤マジックで線が引かれた裁断されるべき本であった。昔は売れ残った本は裁断され、処分されたものであるが、その一部が闇市場を経て、海外の日本人居住区で売られるようになった(その後、ブックオフがリサイクルへの道を拓いた)。海外暮らしする日本人は持参した本を何回も飽きるほど読み返し、活字に飢えていく。そんな状態で、手にとった覚えがある。
❏ 思考と感情は言語の影響を受ける
その本の中ではメインテーマではなかったが、驚くべき内容が議論されていた。子どもの教育媒体言語を何にするか・・の議論である。これは国際結婚でもしない限り、普通の日本人には知り得ない領域であろう。だから無頓着でも仕方がない。だが、英語教育を昨今のようなグローバル化の流れの中で真剣に捉えるのなら論じていく必要がある。しかし、あくまでも日本を拠点とするならば、外国語は"視野を広める"効果と期待していて構わないと思う。
しかし、私たちの場合は英語圏への移民、すなわち母国語である日本語を捨てる覚悟をしていた。そこで、この本の著者らが議論していた「何語で育てるか?」が、自分たちの身の上にも他人事でなく、重なってきたのである。果たして、そこには母国語(母語)を失うことの危険性が書かれてあった。この視点は、いかなる英語教育の本にも一切、触れられていなかったので、この本には思いがけず助けられもし、私たちの英語学習の指針にもなったのだ。何と書かれていたか? それは、母国語を失ったり、教育媒体言語の切り替えに失敗すると、思考や感情を喪失する・・と言うのである。逆に言えば、使う言語が人の思考・感情・行動に強く影響を及ぼしていくことを意味している。この論点が、日本では希薄だと思う(竹内)。
付記:私たちは子ども3人をバンコクのインターナショナル・スクールに通わせていたので早晩、この問題と対峙することになった。つまり国際バカロレア(IB)プログラムは国境を越える子女(外交官や商社マンなど)を主たる対象としている。従って、母国語を維持していくことがIBプログラムの大前提となっている。実際、子どもは二、三ヶ月間で英語媒体授業に出席を許されるほど上達は早かった(日本の小学校の低学年と高学年、あと3歳児で転校した)。子供たちはバイリンガル化していくに連れて、使う言語で性格も変わる印象があった。次第に、子どもたち同士は家の中でも英語で会話するようになっていた。注意を受けたのは、「両親は日本語を使い続けること。そうでないと、必ず母国語である日本語を失う・・」。そう、経験者(一家でフランスへ移住していたという小学校・幼稚部の教員)から助言を受けたのだ。それでも家庭内に隔離された日本語に一部、不具合が生じてきた。さらに、帰国して区役所で散々、書き慣れたはずの住所を漢字で手書きする際、思ったようにペンが走らずに、冷や汗をかいたのも事実だった。
