❏ 住む国を変えて感じた「乗り換え」モデル

幾度となく、不思議な縁に気づいた。日付にはどうやら意味があるように感じる。一本のチョークが折れて、別の色のチョークに繋がるイメージである。行動を変えることで、自ずと結べる人間関係も変わる。1本の1色のチョークが繋がって、途中から色の異なる1本のチョークとして生まれ変わる。これは、遺伝情報が乗っている染色体の「乗り換え」と呼ばれる現象と同一である。昔は「交差」現象と呼ばれたが、今は「乗り換え」と呼ばれ、ますます人の人生の様相に近づいた感じだ。

 

        ↑折れたチョークを用いた「乗り換え」モデル

 

一生懸命に生きると人生は、ドラマチックになり心底、楽しめる。注いだ力に応じて不思議な縁を巻き起こすことができるからだ。これが、人間が単なる動物でなく「万物の霊長」である所以なのであろう。しかし、多くの場合、人生意気に感ずることなく、暇潰しでもするかのように生きようとしている人が多い。ある程度、年季が入った人は固まってしまっているので強制をする気は毛頭ない。が、まだ若くてこれからの人生が長い人たちには、このチョークのように生き方を変えてみて起こる現象を経験し、楽しんで欲しいと私は心から、そう願っている。

 

❏ ゆく人・くる人が入れ替わる不思議さ

人は直接、手を下すに及ばない。それでも、自動的に人が入れ替わっていくことを経験した。それこそ「神の采配」でもあるかのように思えてくる。しかし、漫然と生きていても実感することは難しいであろう。繰り返し繰り返し人生経験を重ねていくことで、自分で動かなくても周りが動くことがあることを実感している。これは、解かる人には解り、解らない人には解らない。

 

人は平等であるべきであるし、本来は平等である。最初の差は、大した差ではない。しかし、その僅かな差異が、年数を重ねることで埋められない差になっていく。とかく人は、「最初から違っていたのだ。」と言い張るに違いない。が、私の実感では、大した差ではない。気持ちの差だ。どういう気持ちの差かと言うと、「本気」か「本気じゃない」か程度の差である。私は、世の中を生きるに当って「本気じゃない状態のまま生きる」という感覚が、もう理解できない。恐らく最初は見えない程度の誤差だったのだろうと思う。まったく記憶にないのだ。しかし、無理に「本気じゃない生き方をせよ!」と強いる空気が、私には拷問に感じてならない(竹内)。

 

追記:今は、もう昔の話だ。近所に短い柄のホウキで近所で路上を掃いているおばあさんがいた。『天才バカボン』に登場するれれれのおじさんみたいな光景が日本で普通だったのだ。腰が曲がってしまった老婆は、腰を曲げたままの姿勢の方がラクなのだと聞く。それを、無理して伸ばしてしまったら危険ですらある。だから私は無理な注文を無理な相手にする気など、ない。しかし、その環境の下、若い人たちが犠牲になっていく姿を看過することはできない。私は目下、このロジックを教育現場の文脈に当て嵌めて主張したいのが、私の真意である。生まれてきた魂を削いでいく行為は許されない。人を育てる場であるはずの学校が原因で、果ては死んでしまうことだって尽きないからだ。臨海実習で、磯で採集した生き物を食べたら余計、生きるエネルギーを貰った気がする。ごめんね。みんなの生命、無駄にしないから・・。