❏高と大の隙間に入り込んだ「受験産業」の終焉
大学で「高校で、学んできただろ!」とか「高校で、学び直して来い!」とか言うセリフを聞いた人は果たしているだろうか? 私は大学教授に知り合いは少なくないが、そのような言葉を口にした例を知らない。そりゃ、工学部(や工業高専)で電気や機械、土木など、計算が必要な分野では、計算できないと授業が成立しないかも知れない。でも、そんな分野など、全体の一部に過ぎないし、今はソフトウェアもある。
だから選抜のための入試対策が高校教育課程に及ぼしてきた悪影響は、受験産業には利益を生み出してきたのだろうが、日本社会には損害を生み出した。現在に至る日本の失われた40年(受験「偏差値」の導入を起点とする)の原因は「受験産業」が高校教育を席巻したことによる。高校と予備校がやっていることは全く同じではないか? 両者の違いは、高校に行事や部活があるという違いくらいだ。が、部活指導の評判たるや、高校教員にすこぶる悪い。
↑ 近年、閉鎖された代ゼミ(予備校)の建物
❏高校生に「何をどう教えるか」の指針がなかったのが真相
現在、過去に例を見ないほど大規模な「大学入試改革」の大筋が明らかになってきた。これは、もう「手直し」では済まない。併せて、本来の高校教育課程で「受験指導」の代わりに何をするのか現在、教育現場は露頭に迷う直前だと思う(目に見えないが、そう感じている筈)。無理はない。もともと高校生に「何を」、「どのように」教えるかのアイディアが皆無だったのだから、その隙に大学受験が収まってくれたので、関係者には都合が良かったのだろう。要は、理想的な高校課程のあり方などは考えず、単に中学課程を拡大した程度の措置であった。そこで何を身につける(コンピテンシー)の議論ではなく、既存知識の「暗記-再生」力を数値で測ることがあろうことか、学力判断の全てであった。そりゃないでしょう。
大学へ入学する時は、「高校の知識」を問うが、大学で「高校の知識」が必要になることは、まずない。単なる「選抜」のための利用目的しか感じられない。大学では卒論を書くという大仕事がある。実社会でも、文章を書く力がイコール、考える力となる。知識が必要なら、大学で調べれば済むことである。何という壮大な時間と経費を投資してきたのだろうか?高校で学ぶべきは、無理難題を問いて「諦めさせること」ではない。それは人間の仕打ちではない。うら若き自殺者が続出することは無理もない。イジメが蔓延しても当然なのだ。逆に、高校時代にやるべきことは、他に幾らでもあるだろう。それが「探究」や「創作」だ。恋愛や金銭だって必須科目だと、私は考える。どれだけ「恋愛や生活知らず」の心ない大人が、この社会を動かしてきたのか? 教員を経験すれば嫌でも、実感できる。生徒の不幸は、両親の不仲から来ていることが断然多い。日本は進むべき道を大きく誤ってきたことに、疑いの余地はない(竹内)。
