❏日中の名筆_王義之から空海へ
昨日、書を志している社会人高校生を伴い、大阪市立美術館(天王寺公園内)へ行きました。キャッチフレーズは『書聖たちの傑作、大阪に集結!』で、副タイトルは「日中の名筆_漢字とかなの競演」です。大型連休の最中ということで、会場は大変な混雑ぶりで、期待していた講演会『王義之書法の継承-日本と中国(中村史朗・滋賀大教授)』は、整理券も品切れ状態でした。
↑書の展覧会の告知板と会場での配布物(大阪市立美術館)
我々は、思ったように展示物全てを見届けることはできなかったのですが、それでも大きな収穫があった気がしました。それは書が持つ意味も人類の歩みの歴史と伴に、変遷してきたらしいという自分なりの理解ができたことです。それはワープロも、印刷術もなかった時代、筆で文字を紙に記すことが全て・・であったこと。それが、よもや後年、美術館で展示されるとは当事者は夢にも思わなかったであろうことが私には感じ取れました。喩えて言うなら、私の学生時代は孔版印刷という「ガリ切り」で文字を油紙に刻んでインクを紙に転写したものです。昔の学校では「ガリ切り」が上手なことが、先生の素養でした。ガリ切りで作られた「ガリ本」もあり、大学院時代の恩師の博士論文は、プロの手で製本されたガリ本でした。
❏車窓に飛び込んで来ては消え去っていく風景
私は歴史を去来する人間を、こんな風に感じ取れました。上で触れた私の指導教官は、私の父親と同年齢ですが、既に世を去りました。呑気な私の父親は今でも健在ですが、いずれは世を去るでしょう。そして、私も例外ではありません。若い人たちには、自分のそうだったように、時間は無限に感じられるのかも知れません。当然です。が、近年、富に自然災害や不慮の事故、加えて不本意なことでしょうが、自殺者数は交通事故者数を上回ると聞きます。この国は、どうしてしまったのでしょうか?
私は、この社会人高校生には中学以来、学んでいない英語を単語や文法、構文解析などの学校英語の修得に必要だとされている要素を全てショートカットして、大人として実用レベルの英語が自由自在に使えるようになることを実証したく、彼と共同実験に取り組んでいます。このことが実証されたなら、通信制高校として不登校のため英語などの教科教育の一部が欠落した生徒も進学や就職に支障がないことになります。私も研究者になるために進学してきた身ですが、私は主として自分が自分に対して教育してきたこと、学校は卒業資格を授与してくれた機関である・・という認識が拭えないのです。皆様は、どうお考えなのでしょうか? 今のようにインターネットや教材となるリソースに溢れる時代、これからの学校の役割は、遠い未来を見通せば、日本に固有の「論文博士」制度のように卒業資格の認定機関にシフトして行っても宜しいのではないかと、私は思っています(竹内)。
追記:私自身、英国の大学院博士課程に正規留学し、世界初の研究テーマに挑戦しました。それは99%達成しましたが、事情により私は学位論文を取り下げ、別の大学へ移り、最終的には日本の大学の「論文博士」制度を用いて、学位(博士号)を取得しました。英語で書いた博士論文を大英図書館に著作権譲渡文書にサインする直前で、ゼロから論文を新たに書き直しました。英文を書くのは好きなので、同じテーマでもコピペも全くしませんでした。コピペなどしたら、せっかくの自分で英文を書く楽しみが奪われてしまうからです。紙が埋まっていく様子を眺める快感は、絵も書も英語論文も何ら変わりありません。
