❏若年層統計で浮かび出る学校の裏面

天体としての月は自転と公転が同期しているため地球からは裏面が見えないように学校というシステムも、一定の入学する者がいて卒業する者がいて、定常状態を保っているので問題点が浮かび上がる機会は僅かである。時折、ニュースになる虐めとか自殺、教員の不祥事が綻びの一端を見せる程度である。日本語は曖昧さの中に持ち味を有する不完全な言語であるため、日本人同士であれば団結心を育成したり、論理を超えた共感性を生み出す特性を持つ。これが、西欧社会にない魅力を生み出してきた事実に疑いはない。私も日本人を辞めるため英国移民した後、日本へ戻る決心をした身として理解はできる。しかし、日本語の持つロジックの乏しさに日本社会の脆弱さを感じてしまう。私が唱えたい理想像は、日本語や日本社会の長所を留めたまま、その弱点を熟知し、補完していく"balanced(IB学習者像の一つ;文科省の日本語訳を無視して是非、原文英語のまま味わって欲しい!)"された生き方である。

 

    ↑日本の若年層(学生・生徒)の自殺特異日内閣府発表

 

日本の18歳未満の就学している若者が自ら死を選ぶ日は概ね決まっている。4月前半の入学した直後(あるいは新学期)、5月大型連休明け、そして圧倒的多数が9月1日、すなわち長い夏休み明けだ。要するに、学校に通うことが嫌なこと以外には解釈のしようがない。自殺に至らないまでも、学校に通うことを嫌悪している若年層の比率は、いかほどのものか? 仮に「人生には我慢することを覚える価値がある。」とするなら、学校教育基本法の第一条に、そう掲げたら良いだろう。「我々は日本人が社会生活を円滑に営むことを修得させるべく学校教育を施す。ついてはしっかり我慢することを覚えてから、実社会へ出るように・・」と。その肝心の日本の社会がうまく回っていないのは火を見るより明らかであろう。

 

❏現場は考えさせる暇もない多忙繁忙

故意に問題点に目が行かないようにさせているようにすら思える。それを「誤魔化し」と言う。私は故意であると思っている。ガシャガシャと忙しくさせておけば、誰も問題を指摘する余裕もなく、流れを乱さない。これが日本人の専売特許である「和を乱さない」という属性なのだ。ホンキで学校教育を改善したいのなら、そこに余裕を設けるはずである。うまく行こうが行くまいが自分の在任中さえ、「乗り切れれば、御の字・・」という責任者たちの軽薄な想いが覗える。私は公務畑(都庁職員、JICA専門家、国立高専教授)を主として歩んできたため、体制順応型の官僚的な意思決定を十分に理解できるが、この思考が停止したまま惰性で自走していては激突・大破してしまうと憂う(福島原発の爆発など予兆の一つであろう)。

 

本当に学問を納め、科学の時代を生きるのであれば、一つ一つ吟味し、検証して行けば済む問題であり、間違いなく前進できる原理である。だが、誰もが「見て見ぬ振りをする」掟が日本社会に蔓延していると思う(無論、時代の変化を読み、危機を乗り越えている企業もある)。私は学習指導要領に縛られない高専だったので、裁量権の範囲内で現場で教育実験を行えた。毎年、授業や試験などで、新しい試みを導入してきた。同僚や社会に見せる狙いはあったが、自分自身を飾る目的ではない。そのような姿勢は当の昔に捨ててきた。しかし、私利私欲を捨ててきてない者の目には、私の創意工夫も得点稼ぎに見えていたかも知れない。それは己の目が狂っていたのだと知って欲しい。だから私は高専教授の職を5年分捨て去り、裁量権を100%近く行使できる得難い環境(教育特区)で実証実験を継続している(竹内)。

 

追記:現在、実践中の社会実験は、38歳の社会人高校生に英語学習の基礎(単語、文法、構文など)を全て無視し、年齢相応の原書を読み、英語で発信できる力が付与できるか否かである。既に私は高専に着任した初年度で、中学以来、英語が全くできなかった高専生に対し実験し、当事者は大学院へ進学したという実績がある。教育が担う役割は、若者を虐める行為ではなく、鼓舞させていく役割がある。奇跡が起こらないのなら「学校」ではない。ただの作業場だ。成長しないのなら教員も、ただの作業員だ。