❏なぜ教員は1科目専業なのに、生徒は全科目を学ぶのか
小学校以降、教科ごとに専門の教員が分業されることが普通である。教員は免許制の下、1つの教科しか原則、教えないのに高校生は1人で全教科を学ばなければならない。おかしいと感じないだろうか? 一つの試みとして、複数教科を組み合わせて学ぶアプローチが考えられる。図書の分類体系を見ても判るが、なかなか一意的に分類し切れない場合が起こる。本来、自然や社会に「境目」など、存在しない。
↑阿修羅像(一体の像でありながら多数の顔と手を持つ)
もう一つ、重要な新しい学びの視点は、決まった答えを覚えるのではなく、アレかなコレかな・・とあれこれ考えを巡らし答えの候補案(それこそが、「答案」の意味)を見つけ出すことである。そして、「正しい」答えであるか、「間違えた」答えであるかなど、どうでもイイこと。そんなモノは機械的に答え合わせという「作業」すれば済むからだ。「学び」は「作業」ではない。「学び」は人の「成長」に結びついてこそ初めて意味を持つ。「判定」ではなく「成長」が学びの目的であり、成果であるべきなのだ。今までの学校は、点数(数字)を見て、成長(人間)を見ていない。人が為すべき社会的な公益活動としては、日本の学校教育は「裁き」が主体であるから、「非人道的である」と指摘せざるを得ないのだ。
❏教科が異なる教員が協働する姿を生徒に見せるべし
いろいろな組み合わせがあるだろう。例えば、「英語」で「体育」を教える。「家庭科」を「理科」として実験する。科学技術を「理科」の流れの中で、「社会」への影響を通じて未来を見通してみる。それを複数の教員が知恵を出し合って、議論して生徒の前で見せ、その延長線上で、生徒にも参加して貰うのだ。教員が率先して実現できないような課題を、生徒に要求しても始まらない。私は学校教育はハッキリと言って、同じコトの繰り返しに終始してきて、教員自体に学びがなかったと思う。教員が率先して成長せずに、生徒の成長が起こる道理はないのだ。
冒険せよ。挑戦せよ。無駄な仕事を廃し、成長に結びつくことのみ厳選して取り組むべきだ。生徒が成長するなら都合の悪いこともあるまい。現状では、大学に合格させたところで、高校側は教育効果(どのような教え方が、大学でどう活きたかなど)の検証もしていないのが現実だと思う。時代は確実に移り変わる。生徒も、社会のニーズも変わる。それなのにそれに備える体勢が取られているという実感はない。このままで本当に良いのだろうか? 進歩しない教育のままで平気でいられるのだろうか? そんな人生のまま終えて平気なのだろうか? 教育を解き放て。現代は戦後の焼け跡と同じではないのだ。人類の情報という情報をすべて検索可能にするという野望を抱いて、Google という会社まで立ち上がった時代だ。いつの頃のモノサシ当てているのか? まるでチョンマゲ結っているのと、大差ないだろう(竹内)。
