❏現状では学校は「教習所」社会は「路上」とに区分
私の場合、社会で実務についてきた期間の方が遥かに長い、その意味では「ニセ教員」。でも、学校の教員は逆に、「ニセ社会人」に感じる。だから学校は社会から閉ざされた閉鎖社会と感じる。よって、教育の実態が中途半端な「演劇」に留まっていると見抜けた。現実的に、1人の人間が両方の世界を経験するのは今の体制では難しい。私はJABEE(技術者教育認定制度)があったから私は工業高専に「実務系教員」として、またグローバル時代の要請に応えるべく「国際交流室長」候補として採用されたので、実務経験や国際経験が高専教育に活かされた気がしている。

しかし、普通は無理。高校課程の教科書のように幅広い内容を、自身の体験談であるかのように生徒に伝達できる人材がそうそう居るまい(漫談師なら別だが)。だから高校教員は各教員が個々に重点を置く(昔の高校教員にはあった)研究課題を持ち、足りない部分を外部の経験者にアウトソーシングすることはできないか・・と思う。しかも、高校教員が自分の課題を持っていれば、外部の人材と「同格」であり、たとえ「また聞き」であっても迫真性を持って聞けるはず。それは双方が各々、自分のリアルな課題を持つことでお互い称え合え、対等になることでアウトソーシングする真価(コラボ感覚)が生まれてくる。一方が劣勢である限り、相互扶助的な関係を築くことも困難だと思う。

従前の教科書中心の授業は演劇がモデルか?
これまでの学校教育は、教える内容を予め固定し、決めておく条件で教室で進行していた、言わば「演劇」を教員は「役者」として教科書という出来合いの「シナリオ」に基づいて演じてきたと言える。通常の授業は「リアル」な経験に基づく授業であるとは言えない。だから迫真性に欠け、教員も「また聞き」だから自信は持てない。つまらなくても仕方ない。


↑いっそ授業を「演劇」に近づけたら?

単に批難しているのではなく、演劇そのものに意味も価値もあることを認めたい。だから、いっそのこと、学校の授業のモデルは演劇であり、教員は役者、教科書はシナリオであることを認めてしまった方が、私にはスッキリとすると思える。その上で、現在は不備を補うだけのインターネット情報も利用できるのだから、リアルな証言を得るために、SNSを駆使して近隣から協力者を呼び掛けるなり、登録するなりして授業を補ってくれる地元の協力者を募れば良いはずだろう。

それこそ今の時代、定年退職した社会経験ある人材や定年のないオーナー社長らが作るロータリークラブの卓話に倣って、世代を越えてナマの声を時折、生徒に届ける場面を上手に組み込むだけで現状の密室のような学校の教室はずっと風通しが良くなるのではないだろうか? 学校へ招くべき人材は、今の時代なら絶対に事欠かないはずだと思う。そのような地域人材を発掘していくことは今や、テレビ局や新聞社の力を待たなくても可能な時代だ(竹内)。

付記:現代のマスコミこそ、自分で実地調査せずに、落とし所を決めてバイアスが掛かった情報を流したり、あるいは政府の伝言役に徹して本来のジャーナリズムの地位から堕ちているように感じてならない。これまで続けてきた学校教育の、負の遺産なのかも知れない。